うつろ)” の例文
撫でるとまだ躰温が高く感じられるが、みひらいたままの眼や、なかばあいている口は、もううつろな死をあからさまに示していた。
その瞬間、彼らの前面は、心に何のまとまりもないうつろになっていた。そして不気味な絶叫の聞えた土間の入口にばかり気をられていた。
宮本武蔵:06 空の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
私は、佐治の顔を視守みまもりつづけながら、うつろになつてゐる頭から一言一言絞り出すやうに、やつと、それだけ云ひ終つたのだ。
イボタの虫 (新字旧仮名) / 中戸川吉二(著)
踊り狂う数十百の骸骨は、そのうつろの眼を見開き、耳まで開いた口を鳴らして、青白い死の笑いを、——妖悪極まる死の笑いを——笑いかけます。
死の舞踏 (新字新仮名) / 野村胡堂(著)
それを眺めていると、心がうつろになって、肉体が幻の彩りのままに染め上げられて仕舞いそうな危険をほとほと感ずる。
河明り (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
一つの箱のふたが開いている、箱の底に深々と「泣尼なきあま」の面が、上向きに一面置かれてあったが、活きているような上作で、うつろの眼が天井を見上げている。
娘煙術師 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
まぶしい程の朝の光が居間に拡がって来たが、わしの心には何にか大きなうつろな空洞があいて、飲んでいる昆布茶がその空洞へ流れ落ちて行くような感じであった。
(新字新仮名) / 富田常雄(著)
途中で一ぺん握り飯をかじって谷川の水をすくって飲んだ。富内、大滝、千葉、早坂、それに若い高倉が混っていた。彼らは一切を隊長にまかせて自分をうつろにしていた。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
どんなふうな計らいをすれば、世間体のよく、また自分の恋の遂げられることにもなるであろうと、そればかりを思ってうつろになった心で、物思わしそうに薫は家に寝ていた。
源氏物語:51 宿り木 (新字新仮名) / 紫式部(著)
取ってつけたような笑いだけがうつろに響いて、もちろん誰も酌がれた洋杯コップに手を出すものもない。伯爵ひとりで主人席に突っ立って、洋杯を挙げているばかりであった。が、その瞬間
グリュックスブルグ王室異聞 (新字新仮名) / 橘外男(著)
雪の深い、うつろ渓底たにぞこへ、吊されて下りたように悪寒おかんが身を襲って来た。頭の中で鉛を煮るように、熱く、重く、苦しくなった。手足の脉々みゃくみゃくは、飛び上るようにずきりずきり打ち初めた。
悪魔 (新字新仮名) / 小川未明(著)
聡明そうめいまゆをあげてうつろな御堂からいまにも立ち現れ給うごとく感じたのであった。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
婦人科の前の廊下を看護婦が一人、眼をうつろにして、くるくる歩き回っている。背中を強く叩いて「おい、しっかりしろ」というけれども気がつかぬらしく、そのまま同じ運動を続けている。
長崎の鐘 (新字新仮名) / 永井隆(著)
見かへる鼻先きに眞蒼まつさをになつて痙攣的に震ふ兄の顏があつた。またゝきもせずに大きく彼れを見詰めてる兄の眼は、全く空虚な感じを彼れに與へた。彼れにはそれがうつろな二つの孔のやうに見えた。
実験室 (旧字旧仮名) / 有島武郎(著)
向い合う魚頭や魚鱗を彫りますが、余り手の込み入ったものはかえって面白くありません、白木でも朱塗でも作ります。大型のを作る様などは見ものであります。胴のうつろを巧みに彫りぬきます。
手仕事の日本 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
がれよ、こゝに萬物ばんぶつは、べてうつろぞ、日はかむ。
海潮音 (旧字旧仮名) / 上田敏(著)
彼のうつろな目は見るともなしにそれに見入っていた。
田舎医師の子 (新字新仮名) / 相馬泰三(著)
うつろたまは涯知らぬ淵に浮びて
有明集 (旧字旧仮名) / 蒲原有明(著)
母親の声は、うつろにひびいた。
或る母の話 (新字新仮名) / 渡辺温(著)
うつろな窓に吸はれてゆく
太陽の子 (旧字旧仮名) / 福士幸次郎(著)
奈落ならくへかうつろする。
邪宗門 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
うつろのような声で云い、燈火ともしびのない部屋を見廻した。と、闇の中に、仄白く、方形の物が懸かっていた。
血曼陀羅紙帳武士 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
だのに、その恐ろしい人物もいまは南朝方にいなくなったと知ると、彼は、その強敵を敵として、無残にまでつよく自己を生かして来た大きな張りを失っていた。淋しさに似るうつろの下から
私本太平記:13 黒白帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
がれよ、こゝに万物は、べてうつろぞ、日はかむ。
海潮音 (新字旧仮名) / 上田敏(著)
白いうつろな眼を閉ぢる
太陽の子 (旧字旧仮名) / 福士幸次郎(著)
苦虫をかみつぶしたように、まばゆい初夏の庭面にわもへ、うつろに眼を向けていた。
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
こゝうつろなる無聲境むせいきやう、浮べる物や、泳ぐもの
海潮音 (旧字旧仮名) / 上田敏(著)
こゝうつろなる無声境むせいきよう、浮べる物や、泳ぐもの
海潮音 (新字旧仮名) / 上田敏(著)
それはうつろともいえる眼だった。
新書太閤記:02 第二分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
げにうつろなる朽木きうぼく
牧羊神 (旧字旧仮名) / 上田敏(著)