玉造たまつくり)” の例文
また、良人の忠興は、数度の軍功に、秀吉から引立てられて、豊後杵築きつき大禄たいろくに封ぜられている。——そして大坂でのやしきは、玉造たまつくりにあった。
玉造たまつくり稲荷いなり神社の地を栗岡くりおか山、または栗山といってのは、その伝説があった為で、ここでは栗の木をけずったお箸であったといっております。
日本の伝説 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
一、石田治部少ぢぶせうの乱の年、即ち慶長五年七月十日、わたくし父魚屋なや清左衛門、大阪玉造たまつくりのお屋敷へ参り、「かなりや」十羽、秀林院様へ献上仕り候。
糸女覚え書 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
私の郷里は(宮城県玉造たまつくり一栗いちくり上野目天王寺かみのめてんのうじ)——奥羽山脈と北上山脈との余波に追い狭められた谷間たにあいの村落である。谷間の幅は僅かに二十町ばかり。
荒雄川のほとり (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
その時はこねくられたとも何とも、進退きわまり大騒ぎになって、れから玉造たまつくりの与力に少し由縁ゆかりを得て、ソレに泣付なきつい内済ないさいたのんで、ヤット無事に収まった。
福翁自伝:02 福翁自伝 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
中臣なかとみ氏、斎部いむべ氏が、朝廷の祭祀をつかさどり、物部もののべ氏、大伴おほとも氏が武将として兵事に当り、弓削ゆげ氏が弓の製造に従事し、玉造たまつくり氏が玉の加工に当つたやうなものである。
二千六百年史抄 (新字旧仮名) / 菊池寛(著)
玄竹げんちく藥箱くすりばこなりおもいものであつた。これは玉造たまつくり稻荷いなり祭禮さいれい御輿みこしかついだまちわかしうがひどい怪我けがをしたとき玄竹げんちく療治れうぢをしてやつたおれいもらつたものであつた。
死刑 (旧字旧仮名) / 上司小剣(著)
昔の諺に、「ところ玉造たまつくり」ということがありまして、玉造は土地を持たなかった。また今の京都の天部あまべ部落は、もと四条河原に居まして、これを「四条河原の細工さいく」ともあります。
秀吉はいったい何処へ行っていたかというと、実は、城外玉造たまつくり町の、狩野永徳えいとくびたる住居を、訪れていたのである。
新書太閤記:11 第十一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
数十年、老いたる女乞食こじき二人、枯芒かれすすきの原に話している。一人は小野の小町、他の一人は玉造たまつくりの小町。
二人小町 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
そのくせ泉の名を驚きの清水と呼んでおりました。(撫子日記。宮城県玉造たまつくり郡岩出山町)
日本の伝説 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
なにしろそれから二日の間に、かれの姿はいっそうみじめなものとなって、生霊いきりょうのように、ふらりと現れたのが二軒茶屋——玉造たまつくりの東口なのである。
鳴門秘帖:04 船路の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
発作的ほっさてきに笑い出しながら)玉造たまつくり小町こまちと云う人がいます。あの人を代りにつれて行って下さい。
二人小町 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
玉造たまつくりの一角。——ここも変らない新開地的な色彩の中に、難波津なにわつのむかしのまま、こんもりと青葉の樹立こだちに抱えられた一宇いちうどう風雅ふうがな人の住居すまいあとがある。
新書太閤記:11 第十一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「この国の物じゃない。海の向うにいる玉造たまつくりが、七日なぬか七晩ななばん磨いたと云う玉だ。」
素戔嗚尊 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
その晩、磋磯之介は、ここから常陸岸ひたちぎし玉造たまつくり上陸あがる決心をしていたので
旗岡巡査 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
黄泉よみの使、玉造たまつくり小町こまち背負せおいながら、闇穴道あんけつどうを歩いて来る。
二人小町 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
玉造たまつくりの並木のほうへ帰って行った。
鳴門秘帖:04 船路の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)