戊辰ぼしん)” の例文
戊辰ぼしんの変に初めて此路は軍事上に使用され、官軍と会津藩と此処ここで小競合のあった際、兵火の為に関門は焼失してしまった。
尾瀬の昔と今 (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
明治元年すなわち戊辰ぼしんの越後戦争の際、人夫となって家を出で、軍隊に従って会津に至ったところが、会津は落城し、戦争はやんでしまった。
おばけの正体 (新字新仮名) / 井上円了(著)
慚恚ざんい以て屠腹とふくして死するに到り、延いて戊辰ぼしんに及ぶまで、長州において一低一昂したるにかかわらず、遂に打破的革命派の全勝を以て局を結べり。
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
戊辰ぼしんの大改革はある点においては新思想と旧思想の調和に起これり。ある点においては主戦論と主和論との譲歩に成れり。
近時政論考 (新字新仮名) / 陸羯南(著)
戊辰ぼしん正月、鳥羽伏見の戦で、幕軍が敗れたという知らせが、初めて桑名藩に達したのは、今日限きょうぎりで松飾りが取れようという、七日の午後であった。
乱世 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
また戊辰ぼしん戦争の後には、世の中が惨忍な事を好んだから、仕掛物しかけものと称した怪談見世物が大流行で、小屋の内へ入ると薄暗くしてあって、人が俯向うつむいてる。
江戸か東京か (新字新仮名) / 淡島寒月(著)
小金井の家は戊辰ぼしんの際に朝敵となった長岡藩の士族で、主人は貧しい家に兄弟が多く、貸費生たいひせいで仕上げたのです。
鴎外の思い出 (新字新仮名) / 小金井喜美子(著)
文化五戊辰ぼしんの年三月三日、南畝はここに六秩ろくちつ賀筵がえんを設けたる事その随筆『一話一言』に見ゆ。大窪詩仏おおくぼしぶつが『詩聖堂詩集』巻の十に「雪後鶯谷小集得庚韻せつごうぐいすだににすこしくあつまりてこういんをえたり
礫川徜徉記 (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
外人の眼を以てるときは、戊辰ぼしんにおける薩長人さっちょうじん挙動きょどうと十年における西郷の挙動と何のえらむところあらんや。
破提宇子はでうす流布本るふぼんは、華頂山文庫かちょうさんぶんこの蔵本を、明治戊辰ぼしんの頃、杞憂道人きゆうどうじん鵜飼徹定うがいてつじょうの序文と共に、出版したものである。が、そのほかにも異本がない訳ではない。
るしへる (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
半蔵は旅先ながらに土地の人たちの依頼を断わりかね、旧師のために略歴をしるした碑文までもえらんで置いて、「慶応戊辰ぼしんの初夏、来たりてその墓を拝す」
夜明け前:03 第二部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
今となりては、戊辰ぼしんの義戦も、ひとえに、私をいとなみたる姿となりゆき、天下にたいし、戦死者にたいして、面目なきぞとて、しきりに涙をもよおされける。
明治元年戊辰ぼしんとし正月、徳川慶喜よしのぶの軍が伏見、鳥羽に敗れて、大阪城をも守ることが出来ず、海路を江戸へのがれた跡で、大阪、兵庫、堺の諸役人は職を棄ててひそかく
堺事件 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
桜田門さくらだもん事変から戊辰ぼしん戦争にいたる大小幾多の政争や内乱をそのあいだにさしはさんで、混乱しきっている日本幣制を、金銀両本位の円制度に切替るというはなれわざが
明治の五十銭銀貨 (新字新仮名) / 服部之総(著)
正月、戊辰ぼしんの戦いの意味もまだ分明しないうち、早くも同じく三月には奥羽鎮撫ちんぶの征討軍が起された。順逆の態度を考えるひまもないほど、ことは矢つぎばやに起った。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
戊辰ぼしん前に洋行したという噂のある渋沢栄一も帰朝して、一頃ひところ、静岡の紺屋町に商法会所を創立して頭取とうどりとなっていたが今では新政府の官員になって東京に羽振りをきかせているという。
松のや露八 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
しかしもともと彼の武人気質かたぎ戊辰ぼしん当時の京都において慶喜の処分問題につき勤王諸藩の代表者の間に激しい意見の衝突を見た時にも、剣あるのみの英断に出
夜明け前:04 第二部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
一体に小説という言葉は、すでに新しい言葉なので、はじめは読本よみほんとか草双紙くさぞうしとか呼ばれていたものである。が、それが改ったのは戊辰ぼしんの革命以後のことである。
明治十年前後 (新字新仮名) / 淡島寒月(著)
歳月は匆々そうそうとしてすぐること二十五年、明治戊辰ぼしんの年となって、徳川氏は大政を奉還したので、丸亀藩では幕府の罪人をあずかってこれを監視する義務がなくなった所から
枇杷の花 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
或は西南の騒動そうどうは、一個の臣民しんみんたる西郷が正統せいとうの政府に対して叛乱はんらんくわだてたるものに過ぎざれども、戊辰ぼしんへんは京都の政府と江戸の政府と対立たいりつしてあたかも両政府のあらそいなれば
戊辰ぼしん内乱(二十歳)に当っては民兵を組織して三春みはる藩論を「帰順」に導き、暗転して維新となるや、若松県ついで三春藩の微官(準捕亡・捕亡取締役)にされ、副区長に転じ
加波山 (新字新仮名) / 服部之総(著)
戊辰ぼしんえきには、その下で、歩兵伍長ごちょうとして率先して指揮に従ったなつかしい関係であった。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
もうくに、お噂も承っておりましたゆえ、お訪ね申さなければならんのでしたが、戊辰ぼしんの役に、上野から東北へと転戦して後、すぐ新政府に召し出されて、兵部省の書記を仰せつけられ
松のや露八 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
四年たくせられて越後國高田に往き、戊辰ぼしんの年にはなほ高田幸橋町みゆきばしちやうに居つた。
寿阿弥の手紙 (旧字旧仮名) / 森鴎外(著)
中興の事業まったく成就したりと思いのほかに、戊辰ぼしんの大変動となり、すでに太政官制だじょうかんせいを定め、まず雨降りて地固まることならんと人々安心したるにもかかわらず、ついに諸藩版籍奉還となり
将来の日本:04 将来の日本 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
一八六八年(慶応四年)一月二日、これが、戊辰ぼしん戦争の発端であった。
半蔵が多くの望みをかけてこの旅に出たころは、あだかも前年十月に全国を震い動かした大臣参議連が大争いに引き続き戊辰ぼしん以来の政府内部に分裂の行なわれた後に当たる。
夜明け前:04 第二部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
伍長ごちょうから一躍して大隊長の資格を得たのであるが、その間に軍隊の諸方式はすっかり変っている。戊辰ぼしん戦争の経験は胆玉のことには役立っても、指揮者としては何にもならない。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
これを関東織物業中心地帯の資本家兼地主たり、かつかかるものをその多彩な「志士」活動の社会的地盤とした渋沢栄一の戊辰ぼしん前史と比べてみれば、思い半ばにすぎるものがあろう。
福沢諭吉 (新字新仮名) / 服部之総(著)
慶応四年戊辰ぼしん正月二日、尾公徳川慶勝は前将軍慶喜のまさに大阪城を出発せんとするを聞き、田中国之輔、鷲津毅堂の二人を派遣し、幕府の参政永井玄蕃頭ながいげんばのかみ塚原但馬守つかはらたじまのかみに会見して
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
眞志屋文書中の「文化八年ひつじの正月御扶持渡通帳おんふちわたしかよひちやう」に據るに、此後文化五年戊辰ぼしんに「三人半扶持の内一人半扶持借上二人扶持被下置くだしおかる」と云ふことになつた。これは十代もしくは十一代の時の事である。
寿阿弥の手紙 (旧字旧仮名) / 森鴎外(著)
政府が士族の救済も多く失敗に帰し、戊辰ぼしん当時の戦功兵もまた報いらるるところの少なかったために、ついに悲惨な結果を生むに至ったことを教えたのもこの戦争であった。
夜明け前:04 第二部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
いま筆者が参照している随筆『しぐれ草紙ぞうし』の著者、会津藩士小川わたるは天保十四年生れで、文久から明治戊辰ぼしんにかけて同藩現役の中堅であった。「ところ刑は」とかれは書いている。
せいばい (新字新仮名) / 服部之総(著)
東北戦争——多年の討幕運動の大詰おおづめともいうべき戊辰ぼしんの遠征——その源にさかのぼるなら、開国の是非をめぐって起こって来た安政大獄あたりから遠く流れて来ている全国的の大争いが
夜明け前:03 第二部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
戊辰ぼしん内乱に敗れた東北旧「賊」藩の士族たちの手で拓かれている。