辛酸しんさん)” の例文
今の辛酸しんさんも、かくまで呪われた恋の不幸さも、忘れていた。——現実に恋人と会っているような陶酔とうすいのなかに尺八を吹きふけっていた。
牢獄の花嫁 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
この薄命な、しかしねばり強い人が、どれほどのこの世の辛酸しんさんを経たあとで、今の静かな生活にはいったか、私もそうくわしいことを知らない。
分配 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
幼い頃から世の辛酸しんさんめて来た人に特有の、磊落らいらくのように見えながらも、その笑顔には、どこか卑屈な気弱い影のある、あの、はにかむような笑顔でもって
鉄面皮 (新字新仮名) / 太宰治(著)
さらに兄に依嘱いしょくしえべくんば、我が小妹のために一顧を惜しまざれ。彼女は我が一家の犠羊ぎようなり。兄の知れるごとく今小樽にありてつぶさに辛酸しんさんめつつあり。
星座 (新字新仮名) / 有島武郎(著)
そして、身体を練り、知恵を磨く一方では、復讐事業の資金を貯蓄する為に、あらゆる辛酸しんさんめた。
魔術師 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
世の中の辛酸しんさんも、道理も理解することの出来ぬ、公方というような、最大特権階級の我儘者わがままものの、愛憎が、どのように変化のはなはだしいものであるかは説明を待たない。
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
まだ三十四五であったが、世の中の辛酸しんさんをなめつくして、その圭角けいかくがなくなって、心持ちは四十近い人のようであった。養子としての淋しい心の煩悶はんもんをも思いやった。
田舎教師 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
わたくしちち旗色はたいろわる南朝方なんちょうがたのもので、したがってわたくしどもは生前せいぜん随分ずいぶん数々かずかず苦労くろう辛酸しんさんめました……。
衰えきった顔であった、つぶさに嘗めて来た世の辛酸しんさんが、刻まれているしわの一つ一つに浸みこんでいるのであろう。けれどいますべては終った、もうどんな苦しみもない。
鼓くらべ (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
それは刑事たちにとって、無理もない欲望だったし、それに二人が本庁を離れ、はるばるこの横浜はまくんだりへりこんでからこっち、二人でめあった数々の辛酸しんさんが彼等を一層野心的にしていた。
疑問の金塊 (新字新仮名) / 海野十三(著)
数十頭のヤク牛が重い荷を負わされて雪解けの谿流を徒渉としょうするのを見ていたら妙に悲しくなって来た。牛もクリーも探検隊の人々自身もなんのためにこの辛酸しんさんを嘗めているかは知らないのである。
柿の種 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
瀑布をのぼ俯視ふしすれば毛髪悚然もうはつそくぜんあしめに戦慄せんりつす、之を以て衆あへて来路を顧みるなし、然りと雖も先日来幾多の辛酸しんさん幾多いくたの労苦とをめたる為め、此険流けんりうを溯るもみな甚労とせず、進程亦従て速なり
利根水源探検紀行 (新字旧仮名) / 渡辺千吉郎(著)
アルペン農の辛酸しんさんに投げ
『春と修羅』 (新字旧仮名) / 宮沢賢治(著)
卯木の兄正成が、一族すべてをつれて立てこもったため、彼女も良人と共に籠城の辛酸しんさんをなめ、清次はそこで呱々ここの声をあげたのである。
私本太平記:13 黒白帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
たしかに、無上のものである。ダヴィンチは、ばかな一こくの辛酸しんさんめて、ジョコンダを完成させたが、むざん、神品ではなかった。神と争った罰である。魔品が、できちゃった。
俗天使 (新字新仮名) / 太宰治(著)
さまざま、世の辛酸しんさんに会われたようでも、もともと深宮のお育ち、真の世間、人間がおわかりというのではありません。
甲賀でも、滝川姓の族は、みな由緒ゆいしょある家すじだった。一益もその血系の子であった。鍛武のまなびはもとよりのこと、若年ずいぶん辛酸しんさんもなめたらしい。
新書太閤記:09 第九分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
と共に、あらゆる飢寒きかん辛酸しんさんとの闘いも心ゆるんで、骨も肉も、筋も、いちどにばらばらにほぐれるかのような気もちになり、どたっと、そこへ坐ってしまった。
大岡越前 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
だが、さいごに一言すれば、ぼくの青少年期は、何ともひどい辛酸しんさんをなめて来たかのようだし、読者もそう読まれたか知らないが、ぼく自身は、ちっともそんな気はしていないのである。
ここ十年の余、光秀は、つぶさに世の辛酸しんさんをなめて来た。
新書太閤記:03 第三分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
ただこういう辛酸しんさんのなかにも毅然きぜんとして失わないものは
新書太閤記:08 第八分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)