にじ)” の例文
政宗謀叛むほんとは初めより覚悟してこそ若松を出たれ、と云った主人が、政宗に招かれてにじり上りから其茶室へ這入はいろうというのである。
蒲生氏郷 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
わたくしは、そういうと女の本能から、差し向いのテーブルながら掛けた椅子をちょっと池上の方へにじり寄せるしなを致しました。
生々流転 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
必ず力を合わせて満月を泥の中に蹴落し、世間に顔向けの出来ぬまで散々に踏みにじって京、大阪の廓雀くるわすずめどもを驚かしてくれよう。
名娼満月 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
滔々とうとう颯爽さっそうとして士道の本義を説いての傍若無人な高笑いに、にじり寄った若侍は返す言葉もなく、ぐッと二の句につまりました。
両腕から股や脛の方までも喰い散らし土のついた草履のまゝ目鼻の上でも胸の上でも勝手ににじるので、又しても仙吉は体中泥だらけになった。
少年 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
おそろしく潔癖けつぺきしも見窄みすぼらしい草木さうもく地上ちじやうにじりつけた。人間にんげんりたものはでもはたでも人間にんげんりて到處いたるところをからりとさせる。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
それから荒川の土手のところを歩いて行くと、土手の上の雑草が踏みにじられて、血痕けっこんがあちらこちらに飛んでいます。
にじったものであることを知ってからは、私達の無念は二倍にも三倍にも深められぬ訳には行きませんでした。
ある抗議書 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
と互に謙譲の美徳を発揮しながら、清君を間に挾んで一二寸宛ジリ/\と漸くのことで客間へにじり進んだ。
好人物 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
にじられてしまった! あのお方に取って、魂を焼き焦すほどのわたしの想いは、何でもなかったのだ。
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
日曜毎に東京から押し寄せて来る多くの人々の足ににじられて、雑草は殆んど根絶えになり、小砂利まで踏み出されている地面から、なごやかに伸びた杉の樹は
首を失った蜻蛉 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
引きちぎったり踏みにじったりした藁束を、憎さがあまって我ながら、どうしていいのか分らないように足蹴にしながら、水口まで来ると、お石は上りかまちに突伏してオイオイ
禰宜様宮田 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
と、その一足一足の下に、幾十という小さい虫、幾百というこまい草が、その生命を奪われる。踏みにじられて殺されるのである。尚彼らは川狩りをして沢山の魚の生命を取る。
神州纐纈城 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
全く私はどれ程の多くの思索の種子を寢床の闇の中でむざ/\とにじり潰して了つたことか。
かめれおん日記 (旧字旧仮名) / 中島敦(著)
その人達の足で、昔の泉は踏みにじられて跡には汚い泥が残つてゐる。セルギウスは稀に心の明るくなつた刹那には、こんな風に考へてゐる。併しそれは稀の事で、不断は疲れてゐる。
枕の上の顔よりも青じろい顔して、清十郎はその側に寂然じゃくねんと坐っていた。自分がにじった花の痛々しい苦悶に対して、自責じせきこうべを垂れたまま、さすがに彼の良心も苦悶しているらしい。
宮本武蔵:04 火の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
セメント煉瓦れんがで固めてある機関銃の巣まで踏みにじったが、敵の戦線からは、不思議な恰好かっこうをした弾がタンクに集中されて、弾丸不貫通という折り紙付きの鉄側にさかんに穴があくのである。
戦雲を駆る女怪 (新字新仮名) / 牧逸馬(著)
「うまいこと云ふ」とつぶやきながら笑つて牧瀬は、すこし歳子ににじり寄り、とうで荒く編んだ食物かごの中の食物と食器をき廻した。
夏の夜の夢 (新字旧仮名) / 岡本かの子(著)
屍体したいの近くに二個所ばかり強く踏みにじってあるのが兇行当時の犯人の足跡ものらしかったが、単に下駄じゃないという事がわかるだけで推定材料にはテンデならない。
近眼芸妓と迷宮事件 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
「いやならあたし、誘惑するわよ。———譲治さんの決心をにじって、滅茶苦茶にしてやるわよ」
痴人の愛 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
この大江戸には、父親を、打ちたおし、蹴り仆し、にじり、狂い死にをさせて、おのれたちのみ栄華えいがを誇る、あの五人の人達が、この世を我が物顔に、時めいて暮しております。
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
母親は娘の側ににじり寄って
女婿 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
眼はどんよりしながらき出されています。しまは少しにじり出すと、「旦那さま、お蝶さまですよ」と言いました。
生々流転 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
まわされて濃くなった部屋の空気は、サフランの花を踏みにじったような一種の甘いあやしい匂いにち、肉体を気だるくさす代りに精神をしばしば不安に突き抜くほど鋭くひらめかせた。
母子叙情 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)