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いうげい
お
豊は自分の身こそ一家の不幸の
為めに
遊芸の
師匠に
零落したけれど、わが子までもそんな
賤しいものにしては先祖の
位牌に対して
申訳がないと述べる。
至善の
大道と
遊芸の
小技と
尊卑の
雲泥は論におよばざれども、孔子七十にして
魯国の
城北泗上に
葬て
心喪を
服する
弟子三千人、芭蕉五十二にして粟津の義仲寺に
葬る時
招ざるに来る者三百余人
番頭
傳兵衞と
云る者
預り
支配なし居たるが此處に吉之助を
遣して
諸藝の師を
撰み金銀に
拘らず
習はするに日々
生花茶の
湯其外遊藝彼是と是を
若い
衆、
知つてるだらう、
此の
川下の
稻荷河原と
云ふ、
新地の
裏に
成る。
彼處に、——
遊廓の
女が、
遊藝から
讀書、
茶、
花なんぞの
授業を
受ける
女紅場と
云ふのがあるのを
所持なし
出店親類又は番頭若い者に至る迄大勢召仕ひ
豐に世を
送りけるが一人の
悴吉之助とて
今年十九歳
人品能生れにて父母の
寵愛限りなく
然れども
田舍の事なれば
遊藝を
其れがお
亡くなりなすつて、
母樣が、
女紅場へいらつしやつて、
踊やなにか、
遊藝の
師匠を
遊ばして、
手一つで、
貴下をお
育てなさります
時分は、
蔭ながらお
顏を
見ましたくらゐなもの。