清洲きよす)” の例文
当時の欧化は木下藤吉郎が清洲きよすの城を三日に築いたと同様、外見だけは如何にも文物燦然と輝いていたが、内容は破綻だらけだった。
清洲きよすの城は、川向うの彼方に小さく見えていた。隊の中には、この尾張四郡の領主、織田備後守信秀おだびんごのかみのぶひでの弟にあたる織田与三郎よさぶろうがいた。
新書太閤記:01 第一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「いいえ……清洲きよすのお屋敷へお引籠ひきこもりになってから、もう二年越し、どちらへも、ちょっとも外出はなさらないそうでございます」
大菩薩峠:29 年魚市の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
天正十年六月十八日、尾州清洲きよすの植原次郎右衛門が大広間に於て、織田家の宿将相集り、主家の跡目に就いて、大評定を開いた。これが有名な清洲会議である。
賤ヶ岳合戦 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
まだ織田信長が尾張おわりにいたころから、秀吉ひでよし伯母聟おばむこになる杉原七郎左衛門すぎはらしちろうざえもんという人が、清洲きよすに住んで連尺商れんじゃくあきないをしていたという話があり、また「茶壺ちゃつぼ」という能狂言のうきょうげんでは
母の手毬歌 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
いよ/\尾州びしゅう清洲きよすのおさとかたへおかえりあそばすことになりました。
盲目物語 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
要旨は、七月一日を期し、清洲きよすに会同、主家の継嗣けいしのこと、明智の旧領処分の問題など、当面の重大懸案を議せん——というのであった。
新書太閤記:08 第八分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
小牧こまきであり、大垣であり、岐阜であり、清洲きよすであり、東海道と伊勢路、その要衝のすべてが、尾張名古屋の城に集中する。
大菩薩峠:29 年魚市の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
どうちゅうつゝがなく清洲きよすのおしろへ御あんちゃくになりました。
盲目物語 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
岐阜ぎふ清洲きよすなどとちがい、彼の地に、菜の花が咲き、桜も散る頃になって、ようやく、野や山が、斑々まだらまだら雪解ゆきげしてまいる」
新書太閤記:09 第九分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「僕は、さほど深謀遠慮あっての取立てとは思わない、単に、清洲きよすの城の延長に過ぎないではなかろうかと思う」
大菩薩峠:29 年魚市の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
敵の小牧や清洲きよすを打ッちゃって、一路、徳川の本城地——三河の岡崎へ、味方をすすめたなら、さしもの家康とて、うろたえるにちがいない。
新書太閤記:10 第十分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
そこで、これらの人たちと共に、改めて斬られている奴を検閲すると、これは長く清洲きよす銀杏ぎんなん加藤家に仕えていた下郎に相違ないことが確かめられました。
大菩薩峠:33 不破の関の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
その数々の縁談はなしのくちで、親たちの眼にり残されているのは、もちろん皆、尾張清洲きよす織田おだ家中ではあるが、とりわけ
日本名婦伝:太閤夫人 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
あしたは、早く起きて、清洲きよすまで行っといで。お役所へ御用の品を持って行くんだからいつもの手押し車へ荷を積んでね。
新書太閤記:01 第一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「では、於福おふくではありませんか。もと清洲きよすの茶わん屋捨次郎すてじろうの息子。後に、流浪していたのを、しばらく長浜へ拾って飼いおいたことがあるが」
新書太閤記:06 第六分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
が、少ない方で、柴田などは出陣そのままの装備と兵力を擁して来たので、無慮一万にちかい麾下きか清洲きよすに入れているだろうという噂であった。
新書太閤記:08 第八分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
信長の亡きあと、かれのひとみは、清洲きよす会議でも、満座を圧し、山崎、しずたけの合戦でも、柴田、滝川のはいをまったく射すくめて来たものだった。
新書太閤記:10 第十分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
その年の四月、信長は、一族の織田彦五郎おだひこごろうと乱をかもして、彼の居城、清洲きよすを攻め、占領後、那古屋なごやから清洲城へ移った。
新書太閤記:01 第一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
この度の御普請中にも、また、常々にも、てまえ密かに思っている儀にござりますが、当清洲きよすのお城は、どう見ても、水利がよろしゅうございません。
新書太閤記:02 第二分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
という触れ出しで、供まわりも極めて小人数だし、支度も軽装のまま、早朝、清洲きよすから野外へ駈けたのであった。
新書太閤記:02 第二分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
一頃ひところから見ると、清洲きよすの町はさびしくなっていた。人口も減り、大きな商家や侍屋敷の数も目立ってってきた。
新書太閤記:03 第三分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
で、いまではこの安土城あづちじょうのあとへ、信長のぶなが嫡孫ちゃくそん、三法師ぼうしまる清洲きよすからうつされてきて、焼けのこりの本丸ほんまるを修理し、故右大臣家こうだいじんけ跡目あとめをうけついでいる。
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
従って、清洲きよす会議にも、このふたりは、単なる遺臣資格でなく、織田家の外戚がいせきとして列していたし、その折の誓約にも、連帯の責任を負っているわけである。
新書太閤記:10 第十分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
秀吉とは、清洲きよす時代からの莫逆ばくぎゃくの友であり、おたがいの莫迦ばかも知っていれば長所も知り合っている仲である。
新書太閤記:08 第八分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
尾州の清洲きよす那古屋なごやあたりとは、街の色や往来の風俗からしてまるで違っていた。道行く者の足の早さ、眼のつかいよう、言語の調子からして違うのである。
新書太閤記:02 第二分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
と、今の栄位を、むしろいとう気さえこの頃は起った。いたずらに、清洲きよす時代のささやかな二人暮しの時ばかり振返られて、良人の内助に、ふと、心のゆるむ日もあった。
日本名婦伝:太閤夫人 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
その山崎の合戦から、次いで、清洲きよす会議にも、もし丹羽五郎左が、秀吉に加担しなければ、時勢は決してあのように、秀吉に飛躍の翼は与えなかったであろう。
新書太閤記:11 第十一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
足軽三十人持の小頭こがしらといっては、まだその足軽よりすこししなくらいの生活でしかない。清洲きよす侍小路さむらいこうじの裏に、若い夫婦は、初めてささやかな家と鍋釜を持った。
日本名婦伝:太閤夫人 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
今日、信長が彼を処罰した理由は、いまから二十五年前、信長がまだ清洲きよすにあって暗愚で乱暴な若殿と——四隣からうとんぜられていた頃のふるい問題なのである。
新書太閤記:06 第六分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
御城内の奥向おくむきには、自分の縁故ある婦人も、清洲きよす御在城の頃から長く勤めておる。……委細は御奉行に会わねば何事も語れぬと、こう申す一点張りなのでござる
新書太閤記:03 第三分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「ではいよいよ怪しい奴。苦しまぎれの詭弁きべんとみえます。心得ました。そう分れば、こッぴどい目に遭わせて、馬もろとも、叩きなぐって、清洲きよすへ追ッ返してくれましょう」
新書太閤記:03 第三分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
前田玄以はどう落ちて行ったか、ともかく遺命を守って、後、三法師を奉じて清洲きよすへ移っている。そしてなおずっと後年には、秀吉の五奉行の一員の中に彼の名が見える。
新書太閤記:07 第七分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
初めて清洲きよすの城で、信長と会見した弱冠から、今日にいたるまで、五分と五分を持していた。
新書太閤記:05 第五分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
(まず、長島ながしま清洲きよすのあいだに兵を上陸させて、信雄と家康とを中断してしまうがよい)
新書太閤記:11 第十一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
の急報によって、信雄と一しょに、清洲きよすから岩倉いわくらにかけつけ、またたくまに、布陣して
新書太閤記:11 第十一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
山鹿素行やまがそこうの「武家事紀」などは、秀吉が毛利と和談し、山崎に光秀を討ち、清洲きよす会議に臨んだ時は、まだ決して、天下を奪う志はなかったものだと云い、ただ、信義の向うところ
新書太閤記:09 第九分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
十七年のあいだに、とにかく尾張おわり清洲きよすの一被官たるご身分から、これだけに躍進され、積年の悪風を京都から一掃して、旧室町幕府の世頃とは比較にならぬほどなご忠誠ぶりでもある。
黒田如水 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
鳴海から清洲きよすへの道。それは十九日の旅だった。
新書太閤記:06 第六分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)