弟子ていし)” の例文
何故なにゆえというに、晩年の漁村が弟子ていしのために書を講じたのは、四九の日の午後のみで、その他授業は竹逕がことごとくこれに当っていたからである。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
濂の人品おもう可きなり。孝孺洪武こうぶの九年を以て、濂にまみえて弟子ていしとなる。濂時に年六十八、孝孺を得ておおいに之を喜ぶ。
運命 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
... ぐる所以ゆゑんかくごと而已のみ』と。孔子こうしつて弟子ていしつていはく、『とりわれぶをり、うをわれおよぐをり、けものわれはしるをる。 ...
恩を着るはなさけの肌、師にあつきは弟子ていしの分、そのほかには鳥と魚との関係だにないと云い切ってしまった。できるならばと辛防しんぼうして来たうそはとうとういてしまった。
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
唐の天宝の末に、安禄山あんろくざんが乱をおこして、潼関どうかんの守りも敗れた。都の人びとも四方へ散乱した。梨園りえん弟子ていしのうちに笛師ふえしがあって、これも都を落ちて終南山しゅうなんざんの奥に隠れていた。
其二は蘭軒が医の職を重んずるがために、病弱の弟子ていししりぞけた事である。それがしは蘭軒に請ふに、其子に医を教へむことを以てした。そして云つた。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
道衍あに孝孺が濂の愛重あいちょうするところの弟子ていしたるを以て深く知るところありて庇護ひごするか、あるいは又孝孺の文章学術、一世の仰慕げいぼするところたるを以て、これを殺すは燕王の盛徳をやぶ
運命 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
それは富士川氏蔵の詩集は蘭軒自筆本であるのに、所々に榛軒柏軒の二子及渋江抽斎、森枳園の二弟子ていしの、蘭軒に代つて浄写した詩が夾雑してゐる事である。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
もとより孝孺の才を知り、又道衍どうえんの言をく。すなわち孝孺をゆるしてこれを用いんと欲し、待つに不死を以てす。孝孺屈せず。よって之を獄につなぎ、孝孺の弟子ていし廖鏞りょうよう廖銘りょうめいをして、利害を以て説かしむ。
運命 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
それが出来なかつたら、師となり弟子ていしとなつたのがめいだ、あまんじて死なうと決心した。そこで君だがね。
大塩平八郎 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
文化四年のうまれである。十一歳にして、森枳園きえんと共に抽斎の弟子ていしとなった。家督の時は表医者であった。令図、富穀の父子は共に貨殖に長じて、弘前藩定府じょうふ中の富人ふうじんであった。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
享保七年八月八日に、七十四歳で歿した。その曼公に書を学んだのは、十余歳の時であっただろう。天漪の子が頤斎いさいである。頤斎の弟子ていし峩斎がさいである。峩斎の孫が東堂である。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
時に元文五年で、師が三十二歳、弟子ていしが十三歳であつた。弥六は後京都にあつて南宮なんぐう氏と称し、名はがく、字は喬卿けうけい、号は大湫たいしうとなつた。延享中に淡淵は年四十になんなんとして芋生から名古屋に遷つた。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)