おり)” の例文
(しかしそれらの中に沈んでゐるのは、孤独のおりではない。ひどく華やいだ、むしろ孤独悦のこころの、——隠微いんび擬態まどはしだつたやうだ)
(新字旧仮名) / 高祖保(著)
海岸からはだいぶ道程みちのりのある山手だけれども水は存外悪かった。手拭てぬぐいしぼって金盥かなだらいの底を見ていると、たちまち砂のようなおりおどんだ。
彼岸過迄 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
それで三村が均平を警戒しはじめ、郁子も間へはさまって困っていた事情や径路が、古いおりが水面へ浮かんで来たように思い出されて来た。
縮図 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
こいつらは浪人無頼漢あぶれもの、ほんとうに斬るでござりましょう。一人に多勢かないはしませぬ。あなたのお体は妾には大切、ナーニ妾の体など、百千人になぶられたおり
血煙天明陣 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
水面は、みるも厭らしいくらい黄色をした、鉱物質のおりが瘡蓋のように覆い、じつは睡蓮はおろか一草だにもなく、おそらくこの泥ではオールも利くまいと思われる。
「太平洋漏水孔」漂流記 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
それはびんの一ばん底に残ったおりまでかきさらうような努力だった! 人はよくこんな風に、強盗に直面した死のごとき恐怖の半時間を持ちこたえるものである。
クラリモンドに愛された僧侶……(以下十数字不明)……詩人たちがうたう人生のおりのなかにあって。
あめんちあ (新字新仮名) / 富ノ沢麟太郎(著)
長い過去を持つ支那文明のおりがあの厚みのある濁りの中に堆積しているように思われ、支那人があゝ云う色沢や物質を嗜好するのに不思議はないと云うことだけは、頷ける。
陰翳礼讃 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
千「もしお母様っかさま、二番が出来ましたから召上れ、少し詰って濃くなりましたから上りにくうございましょう、おいやならば半分召上れ、あとのおりのあります所は私が戴きますから」
菊模様皿山奇談 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
母にしても、生涯、心のおりになるような光景を見ずにすんだことを感謝しているはずです。
肌色の月 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
その折々に、腹におさめていた思案のおりが、なまなましくそのままとびだして来た。落ちついていると口で云い、自分もそうと自分できめ、しかしぼそぼそと果しなくつぶやきだした。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
人生の不幸のおりまで飲み干さなくては真の人間に成れるものぢやない。人生は長い暗い隧道だ、処々に都会といふ骸骨の林があるツきり。それにまぎれ込んで出路を忘れちやけないぞ。
雲は天才である (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
腹が減ってくると、食慾が起り、牛肉のスキ焼がべたいとか天丼をムシャムシャやりたいとか興奮してくる。夜となれば昼間の精神的刺戟がおりの如く析出せきしゅつしてきてこれが夢という興奮をもたらす。
キド効果 (新字新仮名) / 海野十三(著)
Hの妻君が白い両腕に力を入れながら、重いポンプを押したものだつた。水は何時も赤いおりを沈めてゐたが、指の切れるやうに冷たかつた。裏口の戸を二三度押して見たが、堅く釘づけにされてゐた。
月日 (新字旧仮名) / 北条民雄(著)
彼女の心に苦いおりき乱すのであった。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
夏の夜の水田すいでんおり
お庄は目につかぬほどの石炭のおりのついた、白い洗濯物に霧を吐きかけては、しわしはじめた。雨はじきにあがって、また暑い日がすだれに差して来た。
足迹 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
豊富すぎる生活のおりよどみにうんざりし、全身全霊でぶつかって行けるような境遇を求めていたのだったから、うってつけのけ口が見つかったというところだろうが、たった一度
うすゆき抄 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
それは疲れ切った夢のおりであったかも知れない。
あめんちあ (新字新仮名) / 富ノ沢麟太郎(著)
上澄うわずみどころか、人生という盃から、柚子はおりよどみも、みな飲みほし、幸福な感情に包まれて死んだことがわかり、心に秘密を持っている娘というものは、どれほど忍耐強く、また
春雪 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
腹の底におりがないだけでも、さわやかな風に吹かれているような感じであった。
縮図 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
たといどんな条件で別れたにしても、呼び出そうと思えばいつでも呼び出せる庸三だと、葉子は高をくくっていた。それに今度は金の問題があるだけに、取るには取ったが、後の気持に何かおりが残った。
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)