わずら)” の例文
「子供一人を取って別れるよりほかない。そして母と妹とを呼び寄せて、わずらいのない静かな家庭の空気に頭をひたしでもしなければ……。」
(新字新仮名) / 徳田秋声(著)
かつては非人と言われた唱門師しょうもんじ支配のもとにおったという履歴を有していても、それが幾分でもその子孫にわずらいをなしているでありましょうか。
融和促進 (新字新仮名) / 喜田貞吉(著)
雨水が洗い流して海川へ送ると言っても、日々積るものの幾分の一にすぎぬであろう。いかにれてしまっても是が身や心をわずらわさぬはずはない。
木綿以前の事 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
お前たちの母上は亡くなるまで、金銭のわずらいからは自由だった。飲みたい薬は何んでも飲む事が出来た。食いたい食物は何んでも食う事が出来た。
小さき者へ (新字新仮名) / 有島武郎(著)
阿宝はよく貯蓄して、他のことで孫をわずらわさなかった。三年して家はますます富んだが、孫はたちまち糖尿病のような病気になって死んでしまった。
阿宝 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
それから初めてディルタイやリッケルトをわずらわす「歴史」が始まるのである(人類が死滅した後のことは、「歴史哲学」的形而上学にでも一任しよう)
科学論 (新字新仮名) / 戸坂潤(著)
この瞬間には彼女は自己というものを離れ去り、また外界の何物にもわずらわされずに、衝動がはたらくままの行動をする。
エレオノラ・デュウゼ (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
ツマリ『其面影』の時は「文人でない」といいつつも久しぶりでの試みにおのずと筆が固くなって、余りに細部の雕琢ちょうたくにコセコセしたのが意外のわずらいをした。
二葉亭四迷の一生 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
高貴の美女と高貴の美男は、こうして誰にもわずらわされず、心ゆくまでその媾曳あいびきを、朧月おぼろづきの下辺に続けて行く。
蔦葛木曽棧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
秘密を知っている伊八を生かして置いては一生涯のわずらいだから、いっそ亡き者にしてしまえと、誰かに頼んで殺させたに相違ないと、おきよは泣いて訴えるのです。
真鬼偽鬼 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
今更懐中の金子を道にて行き候とも、人殺の罪は免れぬ処と、夜中やちゅうまんじりとも致さず案じわずらひ候末、とにかく一先ひとまず何地いずちへなり姿を隠し、様子をうかがひ候上、覚悟相定め申べしと存じ
榎物語 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
父さては家にわずらいを及ぼさんは眼の前なりと思い返し、財産は弟に譲るも遺憾なし、自分は思う仔細しさいあれば、多年の苦学をむなしうせず、東京にて相当の活路を求めんといい出でけるに
妾の半生涯 (新字新仮名) / 福田英子(著)
即ち同じく哲学を持ちながら、其哲学の為めに作り上げる作品がわずらいされて、直ちにそれが読者の目に見えくか、或は自然に作り上げられた作品の中へ、其哲学が畳み込まれるかの別れる処は
予の描かんと欲する作品 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
父の死後一人の兄がなまじっかな才気にわずらわされて、輪島塗を会社組織にしようと思い付いて会社を創立したが、その株金を使いこんで、もしその金が無い時には監獄へ入れられる——つまり
地上:地に潜むもの (新字新仮名) / 島田清次郎(著)
めた、パイプがあれば、二日や三日は煙草を食っても生きてられる、早速近藤君をわずらわして、刻みをつめて貰って、一寸西洋の御大名みたいだが、片手では詰められないから、これも已むを得ない
スウィス日記 (新字新仮名) / 辻村伊助(著)
これは穢多は穢れたものであるという思想と、「穢多」という同情なき文字とがわずらいをなしているのであります。
私の住居すまいは日本人まち呉淞路ウースンルーの二十号にあって、日本商人の山崎という人の、別館一棟を借りていたので——それは洋館でありました——誰にもわずらいされることなしに
尤もこういう痼癖がしばしば大きな詩や哲学を作り出すのであるが、二葉亭もまたこの通有癖にわずらいされ、直線に屈曲を見出し平面に凹凸を捜し出してくるしんだり悶いたりした。
二葉亭追録 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
俺の三十年の清徳も、おまえのためにわずらわされてしまったのだ、この世の中に生きていて、いたずらに女に養われるということは、ほんとうに、すこしも男らしくないことだ、人は皆富を
黄英 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
商売のわずらいと云いながら、桂斎先生も飛んだかたきをこしらえてしまいました。
三浦老人昔話 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
意義なき体面にわずらわされ、虚名のために齷齪あくせくしているのに比して、裏長屋に棲息している貧民の生活が遥に廉潔れんけつで、また自由である事をよろこび、病余失意の一生をここに隠してしまったのである。
深川の散歩 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
彼らの生活はますます困難とならざるをえなかったのであります。さればとて彼らは、悲しいことにはその身が穢れているとの迷信にわずらわされていました。
かつ私が二葉亭と最も深く往来交互したのは『浮雲うきぐも』発行後数年を過ぎた官報局時代であって幼時及び青年期を知らず、更に加うるに晩年期には互いに俗事にわずらわされて往来ようやうと
二葉亭四迷の一生 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
繰り返していう、祖先の歴史は決してその子孫にわずらいをなすべきものではない。
融和促進 (新字新仮名) / 喜田貞吉(著)
外国人は因襲を知らないから少しも因襲にわずらわされないで、自己の鑑賞力の認めるままに直ちに芸術的価値を定める。この通弊は単に画のみの問題でなく、またひとり日本ばかりの問題でもない。