子刻こゝのつ)” の例文
「素人量見ですよ、どうせあつしはそんなチヨボクレは知らねえ、——兎も角子刻こゝのつ過ぎまで噛み合つて、——これもいけませんか」
銭形平次捕物控:167 毒酒 (旧字旧仮名) / 野村胡堂(著)
渡邊織江が殺されましたのは、子刻こゝのつ少々前で、丁度同じ時刻にの春部梅三郎が若江というお小姓の手をひいて屋敷を駈落致しました。
菊模様皿山奇談 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
つもりに致しませう最早もはやおつつけ子刻こゝのつなりいざ御休み成れましと女子共に四邊あたり片付かたづけさせければ後藤は何の蛆蟲うじむし同前どうぜん奴輩やつばら某を知らざるやとのゝしりながら胴卷どうまき
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
「宵から急ぎの仕事を片付けて、發つたのは子刻こゝのつ(十二時)大分過ぎでしたよ。どうかしたら子刻半(一時)近かつたかも知れません」
林「えゝ、どうもそれは子刻こゝのつになりますか丑刻やつになりますか、様子が分らねえと斯ういう訳で、へえ」
菊模様皿山奇談 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
奪ひ取り行掛ゆきがけ駄賃だちんにしてくれんと獨り笑壺ゑつぼ入相いりあひかねもろともに江戸を立出たちいで品川宿の相摸屋へ上りのめうたへとざんざめきしが一寸ちよつとこに入り子刻こゝのつかね相※あひづに相摸屋を
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
「宜いとも、その代り子刻こゝのつ(十二時)前に歸しちやならねえよ、上野の鐘を數へて子刻こゝのつ過ぎたら、お前も一緒に歸つて來るが宜い」
銭形平次捕物控:311 鬼女 (旧字旧仮名) / 野村胡堂(著)
是からお酒が始まるとボーンと子刻こゝのつに成りますから、昼だかよるだか頓と分りません。それに引替えて今の権妻は権威が附いたのか、旦那の為に学問をようといって御勉強でございます。
霧陰伊香保湯煙 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
ひそめてうかゞひ居たりしにやゝ夜の子刻こゝのつころとも覺しき頃散々ちら/\と火のひかりえたりしが忽ちきえし故彌々いよ/\心をしづめてうかゞひたればたばこの火にやありけん折々をり/\えてはきえるにぞ是は曲者にうたがひなしとすぐに供の者を
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
「そのお玉どのは、——何を隱さう、あの時刻——丁度子刻こゝのつから丑刻やつ前まで、ツイ裏の私の浪宅に來て居たとしたら、どんなものでせう」
子刻こゝのつ(十二時)少し過ぎに源次郎が俺の家の格子の外に立つた時、立聞きして居たと言つた癖にひどく息がはずんで居たが——」
子刻こゝのつが鳴ると、私は一と足先に母屋に歸りました。續いて主人も歸つたやうで、その間には、何をする隙も無かつた筈です」
夜の短かい時分で、寅刻なゝつ過ぎといふと、すつかり明るくなつて居る筈、根岸から子刻こゝのつ過ぎに出ると五里近い道を辿だどり着くのが精一杯でせう。
それは子刻こゝのつ(十二時)近い時分でした。兩岸の灯も消え、吉原通ひの猪牙舟ちよきぶねの音も絶えて、隅田川は眞つ黒に更けて行きます。
「もう、子刻こゝのつ(十二時)近かつたと存じます。奧樣がお呼びになりましたので、手燭てしよくをつけて、廊下にお迎へ申し上げ、——」
神山守は呻吟しんぎんするのです。若い娘が、若い男の獨り住居の家へ、眞夜中の子刻こゝのつから丑刻やつ近くまで居たといふことは、一體何を意味するでせう。
尤も夜中の子刻こゝのつ(十二時)少し前に、妙な聲がしたので、お萬さんが驅けつけ、林三郎どんが殺されて居るのを見付け、大騷動になりました。
昨夜ゆうべですよ、二三軒飮み廻つて、家へ戻つたのは子刻こゝのつ近かつたでせう、叔母さんが、手紙が來てますよと言つてくれたのを
一昨日は三月の晦日みそかで、夜中近くまで弟の金次郎を相手に帳面を調べ、それからめいのお豊のしやくで珍しく一杯呑んで寢たのは子刻こゝのつ(十二時)過ぎ。
丁度子刻こゝのつ(十二時)、上野の鐘がかすかに餘韻よゐんを引いて鳴り止むと、何處からともなく、ユラリと出て來た者があります。
同じ夜、子刻こゝのつ過ぎ、永代のあたりから漕ぎ上がつた傳馬が一さう、濱町河岸に來ると、船頭がともの灯を外して、十文字に二度、三度と振りました。
「御町内の衆五六人と川崎へ詣り、戻つたのは子刻こゝのつ(十二時)近かつたと思ひます、品川で散々飮んだ醉も覺めて、ヘトヘトに疲れて居りました」
「大層しをらしくなつたね。ところが、昨夜子刻こゝのつから先、騷ぎのあつた時まで、内儀と敬吉とお前は、階下の八疊から一度も外へ出なかつたのか」
「その代りお吉が裏の戸を開けて外へ出たのは夢心地に知つてをります。——子刻こゝのつ(十二時)過ぎだつたと思ひますが」
「あの男は下手人げしゆにんぢやあるめえ。亥刻よつ半から子刻こゝのつまで俺の家の格子の外で話をして居たと申松さるまつ親分に教へて來るが宜い」
が、昨夜の亥刻半よつはん(十一時)や子刻こゝのつ(十二時)では、その時兩國の下に居た、甥の音次郎でないことだけは確かです。
私は亥刻よつ(十時)前にこの部屋に引揚げましたが、萬屋さんと巳之吉は、子刻こゝのつ(十二時)近くまで離屋に居りました。
上野の子刻こゝのつの鐘が、その最後の餘韻よゐんを闇の中に納めると、石田清左衞門は、豫て用意した席へピタリと坐りました。
「何んだ、八か、もう子刻こゝのつ(十二時)近いんだぜ。放圖もない聲を出すと、御近所の衆がびつくりするぢやないか」
その晩子刻こゝのつの鐘は鳴りました。秋口らしくもないムン/\した夜で、月も何んにも無く、僅かに母家の明りが漏れて、その邊の樣子がわかるだけです。
「へエ、一度は必ず起きます。大抵子刻こゝのつ(十二時)頃で、それより遲いことはあつても早いことはございません」
「お今は、昨夜ゆふべ合圖を聽いて戸を開けてやつたのは、子刻こゝのつ(十二時)近かつたと言ひますよ。自分の床へ歸つたら、間もなく淺草の九つが鳴つてゐたと」
「寺男と小坊主が二人、時々顏を出したが、それも宵のうちだけで、子刻こゝのつ(十二時)過ぎは辰藏一人になつた」
「本人は一刻もかゝらなかつたと言つて居ますから、子刻こゝのつ前には松井町に戻つたことでせうが、歸る姿を誰も見た者が無いから、言ひわけが立ちませんよ」
夜の見廻りは丁寧で、どうかすると半刻もかゝることがありますが、それにしてもあんまり遲いので、子刻こゝのつ(十二時)近くになつてから、幸吉さんが樣子を
知つて居る、それが聽き度ければ、今夜正子刻こゝのつ(十二時)内儀の部屋の裏、あの土藏のひさしの下へ來てくれ——と
子刻こゝのつ前だつた相で、大騷ぎをして居る最中、子刻(十二時)の鐘が鳴つたと、これは手代の香之助の話です」
「八日と十三日と十八日の晩——。宵から子刻こゝのつ前まで、仲吉さんと、私は、——あの、裏の納屋に居りました」
主人夫婦始め、娘のお清も、掛りうどの瀧山誠之進も、下女のお近も、床へ入つたのは子刻こゝのつ(十二時)近い頃。
癖だね。毎晩きまつて、夜半過ぎに——子刻こゝのつから丑刻やつの間に、暑くとも寒くとも、必ず小用に起きましたよ。——それに恐ろしい疳性かんしやうで、雨戸を開けて、手を
その晩、子刻こゝのつ過ぎ、黒木長者の嚴めしい土塀、丁度人肌地藏の上のあたりへ、星空を背景にして、屋敷の内側から浮き上がるやうにぢ登つた者があります。
「長くなりさうだからと、供をして行つた小僧の留吉を先に歸し、少し醉つて、津々井樣を出たのは、亥刻半よつはん(十一時)、子刻こゝのつ(十二時)近かつたと申します」
安倍丹之丞の屋敷は直ぐ解りましたが、嚴重に門が閉つて居て、子刻こゝのつ近い刻限では入れやうはありません。
子刻こゝのつが鳴つてから寢付きましたから、丑刻やつ近かつたかも知れません。變な音がして眼が覺めると有明の行燈の前に、眞つ黒な男が立つて居るぢやありませんか」
もう子刻こゝのつ近いでせう。街は灰をいたやうに鎭まつて、朧月おぼろづきの精のやうに、ヒラヒラと飛んで來る花片。
金藏がたつた一人で、私の書いた文句の場所を測り出し、私に構はず掘り出しました。——子刻こゝのつ(十二時)から始めて丑刻半やつはん(三時頃)までに三尺も掘つたでせう。
二人があとを左吉松親分に任せて、その縁側から私に聲を掛けたのは丁度子刻こゝのつ(十二時)でした。
そこでお咲は今晩來てくれたら、綺麗に別れるからと言つて、子刻こゝのつを合圖に呼寄せたのだらう。姉は親類へ泊りに行つたし、聾の婆やには酒を呑ませて寢かしてしまつた
「先生は、よく晴れた夜は、子刻こゝのつ(十二時)まで星を見て居られる。昨夜は月が良くて、星を見るには不都合であつたが、それでも子刻までは塔の三階に居られたやうだ」
子刻こゝのつ(十二時)の鐘が鳴り止んだばかりの時——内儀さんに火の用心のことを言はれて、念のため廊下傳ひに離屋へ來て見ると、左吉松さんはこの有樣ぢやありませんか。