箱館はこだて)” の例文
此地の温泉は今春以来かく大きなる旅館なども設けらるるようなりしにて、箱館はこだて相関聯あいかんれんして今後とも盛衰せいすいすべき好位置に在り。
突貫紀行 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
その忠義論もトウ/\行われずに幕府がいよ/\解散になると、忠臣義士は軍艦にのっ箱館はこだてに居る者もあれば、陸兵を指揮して東北地方に戦う者もあり
福翁自伝:02 福翁自伝 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
オランダ・ロシア・イギリス・フランスの四かこくとも条約じょうやくをむすび、すでに日米和親条約にちべいわしんじょうやく開港かいこうされていた下田しもだ箱館はこだて函館はこだて)にくわえて、ちかいしょうらい
しかし武四郎は厳しく罪を問わるるに及ばずして放免せられたものらしい。安政二年武四郎は堀織部正ほりおりべのしょう箱館はこだて奉行の職にあった時奉行所の筆記役となっている。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
この年箱館はこだてっている榎本武揚えのもとたけあきを攻めんがために、官軍が発向する中に、福山藩の兵が参加していた。伊沢榛軒の嗣子棠軒とうけんはこれに従って北に赴いた。そして渋江氏を富田新町にうた。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
箱館はこだて五稜郭ごりょうかく開城かいじょうのとき、総督そうとく榎本氏より部下に内意を伝えて共に降参せんことを勧告かんこくせしに、一部分の人はこれをきいおおいに怒り、元来今回のきょは戦勝を期したるにあらず
瘠我慢の説:02 瘠我慢の説 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
彰義隊しょうぎたいけいくさにおわったあと、幕府ばくふがわのひとたちは、東北地方とうほくちほうにのがれ、二本松にほんまつ会津若松あいづわかまつや、北海道ほっかいどう箱館はこだて函館はこだて)の五稜郭ごりょうかくなどで、官軍かんぐんにてむかい、つぎつぎにやぶれていきました。
れする中にここに妙な都合のい事が出来ましたその次第は、榎本えのもと箱館はこだてで降参のとき、自分がかつ和蘭オランダ在留中学び得たる航海術の講義筆記を秘蔵して居るその筆記の蘭文の書を
福翁自伝:02 福翁自伝 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
三千年前の項羽こううもって今日の榎本氏をせむるはほとんど無稽むけいなるにたれども、万古不変ばんこふへんは人生の心情にして、氏が維新いしんちょうに青雲の志をげて富貴ふうき得々とくとくたりといえども、時にかえりみて箱館はこだての旧を思い
瘠我慢の説:02 瘠我慢の説 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
この人は幕府の末年に勝氏と意見をことにし、くまでも徳川の政府を維持いじせんとして力をつくし、政府の軍艦数艘すうそうひきいて箱館はこだて脱走だっそうし、西軍にこうして奮戦ふんせんしたれども、ついにきゅうして降参こうさんしたる者なり。
瘠我慢の説:02 瘠我慢の説 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)