手下てか)” の例文
何濤かとうつより早く、手下てかの捕手三人が先へおかへとび上がった。——それが土を踏むやいな、ぎゃッといったので、何濤は仰天した。
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
吉原で心中を仕損じた者は、日本橋へ三日さらした上で非人の手下てかへ引き渡すと定めても、それは何のおどしにもならなかった。
箕輪心中 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
金剛大夫が弾左衛門に渡りを付けずして、江戸で勧進能かんじんのうの興行をしたので、弾左衛門が手下てかの者を率いて、舞台へどなり込んだ話もあります。
腰に尺八の伊達だてはなけれど、何とやらいかめしき名の親分が手下てかにつきて、そろひの手ぬぐひ長提燈ながでうちんさいころ振る事おぼえぬうちは素見ひやかし格子先かうしさきに思ひ切つての串談じようだんも言ひがたしとや
たけくらべ (新字旧仮名) / 樋口一葉(著)
つづいて趙能ちょうのう趙得ちょうとくふたりの影が、手下てか松明たいまつを持たせてどやどやと踏み込んで来た。ここの本殿も広くはない。宋江は早や観念の目をとじた。
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
享保三年に天部あまべ村の手下てか伊左衛門、六条村の手下てか権兵衛・大西屋庄左衛門の三人が、皮田村改めに摂津国へ下った時の調査報告に、島下郡では西富田・岸部・吹田の穢多村と共に
エタ源流考 (新字新仮名) / 喜田貞吉(著)
何とやら嚴めしき名の親分が手下てかにつきて、揃ひの手ぬぐひ長提燈、賽ころ振る事おぼえぬうちは素見ひやかしの格子先に思ひ切つての串戲も言ひがたしとや、眞面目につとむる我が家業は晝のうちばかり
たけくらべ (旧字旧仮名) / 樋口一葉(著)
建水分たけみくまりの舞殿では、山田申楽の楽の音が、はや山上に、わいていた。権三の手下てかもそれに気をとられているのだろう。
私本太平記:03 みなかみ帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
なんとやらいかめしき親分おやぶん手下てかにつきて、そろひのぬぐひ長提燈ながてうちんさいころことおぼえぬうちは素見ひやかし格子先かうしさきおもつての串談じようだんひがたしとや、眞面目まじめにつとむる家業かげうひるのうちばかり
たけくらべ (旧字旧仮名) / 樋口一葉(著)
古事類苑引「我衣」に、「長吏とは手下てかあるなり」とある。
長吏名称考 (新字新仮名) / 喜田貞吉(著)
これと同時に、おしノ大蔵も一群のおし手下てかをつれてこれへ姿をみせた。正成もここに初めて外界の全貌がわかった。
私本太平記:08 新田帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
誰かと見れば、日限切ッての約束した林冲の様子いかにと、それとなく見にきた白衣秀士びゃくえしゅうし王倫おうりん杜選とせん宋万そうまん、そのほか梁山泊の手下てか数十人の群れだった。
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
鎌倉殿から格別なお扱いをいただいて、三百ぢかい手下てかをバラ撒き、宮中なら御息所みやすんどころの床下から、清涼殿せいりょうでんうつばりの数まで読みそらんじている別拵べつごしらえな人間様だぞ。
私本太平記:02 婆娑羅帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
こいつア、いやな勘がするがと、道をえて、鶯谷へもどって来ると、またあの辺でも、羽織裏に、十手の見えるやつが、うろついていやがる。それがどっちも、南の手下てかだ。
大岡越前 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
井水いみずを汲んで口へふくませ、自家の薬丹やくたん印籠いんろうから取り出しなどしている間に、鴻山は、くくし上げた三次や二人の手下てかを引っ立て、一室にほうりこんで厳重にとざしてしまった。
鳴門秘帖:01 上方の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
見ると、手下てかの捕兵が追ッかけて行く先を、一輛の牛車がガラガラと狂奔して行く。
私本太平記:03 みなかみ帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「——天下の声に聴け。ときの外道は、執権どのをめぐって、鎌倉の谷々やつやつにこそみな住むわと、人のいうぞ。外道の手下てか小外道こげどうめら、多治見四郎二郎国長の矢さきを受けらるるものなら受けてみよ」
私本太平記:02 婆娑羅帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)