寛永寺かんえいじ)” の例文
そうして、五がつ十五にち上野うえのでは、官軍かんぐん彰義隊しょうぎたいのあいだに戦争せんそうがはじまり、彰義隊しょうぎたいは、まけてちりぢりばらばらになり、寛永寺かんえいじもやけてしまいました。
滅びた江戸時代には芝の増上寺ぞうじょうじ、上野の寛永寺かんえいじと相対して大江戸の三霊山と仰がれたあの伝通院である。
伝通院 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
慶喜その人は江戸東叡山とうえいざん寛永寺かんえいじにはいって謹慎の意を表しているといううわさなぞで持ち切った。
夜明け前:03 第二部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
東叡山とうえいざん寛永寺かんえいじ山裾やますそに、周囲しゅういいけることは、開府以来かいふいらい江戸えどがもつほこりの一つであったが、わけてもかりおとずれをつまでの、はすはな池面いけおも初秋しょしゅう風情ふぜい
おせん (新字新仮名) / 邦枝完二(著)
それはじつに天下の名僧、川越の喜多院を修し、日光山を経営し、上野の寛永寺かんえいじを建立し徳川家康の軍師とも師父ともなって、三百年太平のもといをきずいた天海僧正だったのです。
幻術天魔太郎 (新字新仮名) / 野村胡堂(著)
ほんのり色付いた桜の梢を雲のようにして、その上に寛永寺かんえいじあか葺屋根が積木のようになって重なり合い、またその背後には、回教サラセン風を真似た鋭い塔のさきや、西印度式の五輪塔でも思わすような
絶景万国博覧会 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
今日こんにち上野博物館の構内に残っている松は寛永寺かんえいじあさひまつまたは稚児ちごまつとも称せられたものとやら。首尾の松は既に跡なけれど根岸にはなお御行の松のすこやかなるあり。
谷中やなかから上野うえのける、寛永寺かんえいじ土塀どべい沿った一筋道すじみち光琳こうりんのようなさくら若葉わかばが、みちかれたまんなかたたずんだ、若旦那わかだんな徳太郎とくたろうとおせんのあにの千きちとは、おりからの夕陽ゆうひびて
おせん (新字新仮名) / 邦枝完二(著)