吉宗よしむね)” の例文
吉宗よしむねは、ことし三十二歳。八代将軍の職についてからも、なおどこやらに、紀州家の三男坊徳川新之助時代の野性と若さとを多分にもっていた。
大岡越前 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
特に五代綱吉つなよしから八代吉宗よしむねにいたる間は、将軍の自発性にもとづく京幕融和は間然するところがなく、尊王と幕府安泰とは背馳するどころでなく見えた。
尊攘戦略史 (新字新仮名) / 服部之総(著)
が、大御所おおごしょ吉宗よしむねの内意を受けて、手負ておいと披露ひろうしたまま駕籠かごで中の口から、平川口へ出て引きとらせた。おおやけに死去の届が出たのは、二十一日の事である。
忠義 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
徳太郎とくたらう信房のぶふさしようのち吉宗よしむねあらたむ御母おんはゝ九條前關白太政大臣くでうさきのくわんぱくだじやうだいじん第四の姫君ひめぎみたかかたにて御本腹ごほんぷくなり
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
成島氏の家はもと同朋どうぼうであったが、錦江が八代将軍吉宗よしむねちょうせられて奥儒者に挙げられてから、これを世襲の職となし、伝えて竜州、衡山、東岳、稼堂より確堂に至った。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
もっともこれよりさき有名な八代〔徳川〕吉宗よしむね将軍の時からして、すでに蘭学の禁も開放され、田沼たぬま意次おきつぐ〕執政の時代には西洋の事物がかなり日本の識者にも知れ渡っていた。
徳川とくがわ八代の将軍吉宗よしむねの時代(享保きょうほう十四年)その落胤らくいんと名乗って源氏坊げんじぼう天一が出た。
備前天一坊 (新字新仮名) / 江見水蔭(著)
我家のご先祖宗武むねたけ卿が、お父上にしてその時の将軍家うえさま、すなわち八代の吉宗よしむね将軍家から、家宝にせよと賜わった利休の茶杓子をはじめとし、従来盗まれた品々といえば、その後代々の我家の主人が
仇討姉妹笠 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
徳川中興ちゅうこうの主、八代将軍吉宗よしむね、徳川最後の将軍慶喜よしのぶ、水戸烈公、徳川時代第一の賢相けんしょう松平定信、林家中興ちゅうこうの林たいら、上杉鷹山ようざん公、細川銀台公の如き、近くは井伊直弼なおすけの如き、みな養子たらざるはなし。
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
時は、徳川八代将軍吉宗よしむね公の御治世ごじせい
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
編者未だ識別しきべつすることあたざれどもしはたしてしんならしめば吉宗よしむねぬしが賢明けんめいなるは言計いふばかりもなくにせにせとして其のあくあばかんすきぞくめつするは之奉行職の本分ほんぶんなれば僞者にせものの天一坊を
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
八代将軍吉宗よしむねの時代から設けられた一つの制度で、百姓、町人、僧侶、神官、誰でもかまわぬ、何か治政上についての得失利害、役人の奸曲かんきょく、奉行の圧政など、上申じょうしんしたいことがあったら
鳴門秘帖:02 江戸の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
当代の吉宗よしむね卿で。
怪しの者 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
ば爲可き者と早も見て取り知たれば我思ふよし云々と吉宗よしむねぬしに言上ごんじやうせしに君又英敏えいびん明才めいさいにていよ/\政治せいぢ改良かいりやうして公方くばうの職を萬世ばんせい不朽ふきうに傳へんといふ素志そしなれば今大岡の言るを
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)