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げんこう
ふりがな文庫
“
元弘
(
げんこう
)” の例文
元々、佐々木道誉なる者は、
元弘
(
げんこう
)
の年、みかどが六波羅の獄から隠岐へ流され給うた日の
出雲路
(
いずもじ
)
まで、その御警固にあたっていた人物だ。
私本太平記:10 風花帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
焼死と信ぜられてゐた正成が、吉野に兵を挙げられた護良親王と呼応して、赤坂城を奪還したのは、
元弘
(
げんこう
)
二年の四月であつた。
二千六百年史抄
(新字旧仮名)
/
菊池寛
(著)
此の皿山は
人皇
(
にんのう
)
九十六代
後醍醐天皇
(
ごだいごてんのう
)
、北條九代の
執権
(
しっけん
)
相摸守高時
(
さがみのかみたかとき
)
の為めに、
元弘
(
げんこう
)
二年三月
隠岐国
(
おきのくに
)
へ
謫
(
てき
)
せられ給いし時
菊模様皿山奇談
(新字新仮名)
/
三遊亭円朝
(著)
その図案を
参酌
(
さんしゃく
)
して製作に掛かった楠公像の形は一体どういう形であるかといいますと、
元弘
(
げんこう
)
三年四月、
足利尊氏
(
あしかがたかうじ
)
が
赤松
(
あかまつ
)
の兵を合せて大いに
六波羅
(
ろくはら
)
を破ったので
幕末維新懐古談:68 楠公銅像の事
(新字新仮名)
/
高村光雲
(著)
為世は自足して元徳四年出家し、八十の高齢で華々しい栄華を一とまず閉ざした。その後、
高野山
(
こうやさん
)
の
蓮花谷
(
れんげだに
)
に
隠棲
(
いんせい
)
したが、
元弘
(
げんこう
)
建武
(
けんむ
)
の間また京都に帰ってもいる。
中世の文学伝統
(新字新仮名)
/
風巻景次郎
(著)
▼ もっと見る
日坂は金谷と掛川との
間
(
あいだ
)
の
宿
(
しゅく
)
で、
承久
(
しょうきゅう
)
の
宗行卿
(
むねゆききょう
)
や、
元弘
(
げんこう
)
の
俊基卿
(
としもときょう
)
で名高い
菊川
(
きくがわ
)
の
里
(
さと
)
や、色々の人たちの紀行や和歌で名高い
小夜
(
さよ
)
の
中山
(
なかやま
)
などは、みなこの日坂附近にある。
小夜の中山夜啼石
(新字旧仮名)
/
岡本綺堂
(著)
ここに三浦
兵衛尉義勝
(
ひょうえのじょうよしかつ
)
とありますよ。この人は
従
(
じゅ
)
五位
下
(
げ
)
だ。
元弘
(
げんこう
)
二年
新田義貞
(
にったよしさだ
)
を
輔
(
たす
)
けて、
鎌倉
(
かまくら
)
を攻め、
北条高時
(
ほうじょうたかとき
)
の一族を滅ぼす、先世の
讐
(
あだ
)
を
復
(
かえ
)
すというべしとしてありますよ。
夜明け前:01 第一部上
(新字新仮名)
/
島崎藤村
(著)
……
治承
(
じしょう
)
四年十月の候、源頼朝が府中の南、
分倍河原
(
ぶばいがわら
)
に関八州の兵を、雲霞の如くに集めたが、その時の費用もその金であり、ずっと下って南北朝時代となり、
元弘
(
げんこう
)
三年新田義貞卿が
剣侠
(新字新仮名)
/
国枝史郎
(著)
そして以後は、
元弘
(
げんこう
)
における戦死者の霊をなぐさめんがため、高時の旧館のあとに、
円頓宝戒寺
(
えんとんほうかいじ
)
の
建立
(
こんりゅう
)
をするなど、ひたすら恭順の意を表しているとあるが
私本太平記:10 風花帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
内裏を襲はんとするを
聞召
(
きこしめ
)
され、
元弘
(
げんこう
)
元年八月二十四日、天皇は、
俄
(
にはか
)
に宮中を出でさせられ、ついで二十七日笠置山に御潜幸遊ばされたが、北條氏は、
足利尊氏
(
あしかゞたかうぢ
)
、金沢貞冬、
大佛貞直
(
おさらぎさだなほ
)
等を将とし
二千六百年史抄
(新字旧仮名)
/
菊池寛
(著)
そうなると、
元弘
(
げんこう
)
、
建武
(
けんむ
)
の昔の蒸し返しで、遠からずまた戦乱の世の中となるかもしれない。まあ、われわれは高知の方へ帰ったら、一層兵力を養って置いて、他日真の勤王をするつもりですとさ。
夜明け前:03 第二部上
(新字新仮名)
/
島崎藤村
(著)
もしこの重い
業
(
ごう
)
をのがれたいのであったら、そもそもは、
元弘
(
げんこう
)
の初め、
笠置
(
かさぎ
)
からの天皇のお招きをお断りすればよかったのである。しかるにすすんで勅を
畏
(
かしこ
)
んだ。
私本太平記:10 風花帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
元弘
(
げんこう
)
いらい、ほとんど、別れ別れ、親と子、ひとつにいたこともないわしたちだった。父
貞氏
(
さだうじ
)
どのの御逝去のころを境に、世は大乱にむかい、われらは戦陣また戦陣——。
私本太平記:13 黒白帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
まづ
九重
(
ここのへ
)
を、きびしくかため申すべしなど定めたり。かくいふは
元弘
(
げんこう
)
元年
八月
(
はづき
)
二十四日なり。
私本太平記:04 帝獄帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
元弘
(
げんこう
)
の若公卿が説いていたような高い理念を、いよいよ胸に
磨
(
と
)
いでいた。だから腹が立つのであった。ふだんでも人をみれば、この国の皇統をほこり、勤王の道を力説していた。
私本太平記:12 湊川帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
元弘
(
げんこう
)
いらい、敗者の
側
(
がわ
)
になって、土地を没収された俄か浪人は、たいへんな数である。
私本太平記:12 湊川帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
これも増上慢を
恣
(
ほしいまま
)
にしてくれば、かつての北条の悪時代に見るがごとき、朝廷無視の暴状となり、その果てには、
元弘
(
げんこう
)
初期のように、寄り寄り、
若公卿
(
わかくげ
)
ばらの悲憤やら密会となって
私本太平記:12 湊川帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
亡き菊池
寂阿
(
じゃくあ
)
(武時)には、たくさんな子があり、
元弘
(
げんこう
)
の博多合戦で、父
寂阿
(
じゃくあ
)
と共に討死したのもあるが、みな父の遺志をついで、後醍醐の
召
(
めし
)
に応じ、中央へ出て二心なき戦功をあげている。
私本太平記:11 筑紫帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
この秋、改元ノ令が発せられ、元徳三年は、
元弘
(
げんこう
)
の元年に変ったという。
私本太平記:03 みなかみ帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
ことし
元弘
(
げんこう
)
元年の秋、二十四歳の御血気なのだ。
私本太平記:04 帝獄帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
“元弘”の意味
《固有名詞》
日本の元号の一つ。元徳の後、建武の前。1331年8月9日から1334年1月29日までの期間のこと。
(出典:Wiktionary)
“元弘”の解説
元弘(げんこう)は、日本の元号の一つ。元徳の後、建武の前。1331年から1334年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条守時。
(出典:Wikipedia)
元
常用漢字
小2
部首:⼉
4画
弘
漢検準1級
部首:⼸
5画
“元”で始まる語句
元
元気
元結
元来
元禄
元來
元和
元氣
元就
元亀