こう)” の例文
天保九年生であるから、嘉永、安政のこうにはなお十代の青年であった。抽斎の歿した時、豊村は丁度二十一になっていたのである。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
蜀山人しょくさんじんの狂歌におけるや全く古今にかんたり。しかしてその始めて狂歌を吟ぜしはおもふに明和めいわ三、四年のこう年二十歳のころなるべし。
江戸芸術論 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
郷党がこうを結ぶ場合には、もし互いの実名を呼ぶのを避くるとすれば、かくのごとくするのほかはなかったのであります。
名字の話 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
そのあらわるるは、多く夏秋のこうにあり。くだるところの家は秫酒じゅつしゅ一盂を以てし、その一方を欠いてこれを祀る。
青蛙堂鬼談 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
クルックの『北印度の俗教』一巻七三頁に、アーマドナガールで四、五月のこう二村の童子石を打って闘う。この行事を廃すれば雨ふらず、もし雨ふれば鼠大いに生じて田を荒すと。
十五、六世紀のこう、かの封建的国家が顛覆して近世的国家の起って以来、次第に同一なる民族は同一なる国家のもとに集るという傾向を生じ、それが十九世紀に至って著しく盛んとなった。
文明史上の一新紀元 (新字新仮名) / 大隈重信(著)
安旅籠やすはたごの二階などに見られる、五六月のこうになるまで、旅客のあとのすっかり絶えてしまうこの町にも、県の官吏の定宿じょうやどになっている浜屋だけには、時々洋服姿で入って来る泊客があった。
あらくれ (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
文登ぶんとう周生しゅうせいせい生と少い時から学問を共にしたので、ちょうど後漢の公沙穆こうさぼく呉祐ごゆうとが米をく所で知己ちきになって、後世から杵臼ききゅうこうといわれたような親しい仲であったが、成は貧乏であったから
成仙 (新字新仮名) / 蒲 松齢(著)
持統天皇の吉野行幸は前後三十二回(御在位中三十一回御譲位後一回)であるが、万葉集年表(土屋文明氏)では、五年春夏のこうだろうと云っている。さすれば人麿の想像年齢二十九歳位であろうか。
万葉秀歌 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
比良野貞固さだかたは江戸を引き上げる定府じょうふの最後の一組三十戸ばかりの家族と共に、前年五、六月のこう安済丸あんさいまるという新造帆船ほぶねに乗った。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
秋冬のこう、深夜夢の中に疎雨斑々はんぱんとして窓をつ音を聞き、忽然こつぜん目をさまして燈火の消えた部屋の中を見廻す時の心持は
西瓜 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
沖縄の方にはドンガという語はないが、旧三月四月のこうの季節をウルズミともヲレズミともいう語があって、「おもろ」の中にもよく出てくる。
海上の道 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
然るに明治十一、二年のこう、道悦が松田道夫どうふもとにあって、金沢裁判所の書記をしていると、その留守にさいが東京にあって投機のために多く金を失った。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
明治大正のこう大阪の実業界に名を知られていた小塚正一郎は利蔵の男である。叔光恭はこの年十歳である。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
芭蕉には島流しの流人るにんの生活を、句にしたものの多いこともちょっと有名であるが、是なども貞享じょうきょう・元禄のこうが、殊に三宅みやけ八丈はちじょうを刑罰に利用した時代であり
木綿以前の事 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
これより先安永天明のこう蜀山人と相並びて才名をせたる平秩東作、朱楽菅江、唐衣橘洲、手柄岡持てがらのおかもちら皆世を去り、狂歌の盛衰は浅草庵市人あさくさあんいちんど鹿都部真顔しかつべのまがお宿屋飯盛やどやのめしもり
江戸芸術論 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
この近頃というのは文化文政のこうと思われるから、津軽の事件から百三、四十年の後である。
海上の道 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
文士が雅号を用いることを好まなくなったのもまた明治大正のこうから始った事である。偶然の現象であるのかも知れないが、考え方によっては全然関係がないとも言われまい。
葛飾土産 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
ところが明治八、九年のこうに、地租改正の準備せらるるや、土地に番号を打つと同時にたくさんの地名を廃し、その代りにこれを収録して残そうとする事業が、内務省地理局の手で全国的に行われた。
地名の研究 (新字新仮名) / 柳田国男(著)