弾正だんじょう)” の例文
旧字:彈正
折角花道から、苦労しながら仁木にき弾正だんじょうがせり上って見ても、毎日毎日大根引下ひきさがれ、と叫ばれて見ては、あまりいい気はしないだろう。
めでたき風景 (新字新仮名) / 小出楢重(著)
と、少弐しょうにの兵、大友の部下、宇都宮弾正だんじょうらも、自陣をすてて、救援にはせつけた。——しかし敵の増援はそれにもっと数倍している。
私本太平記:11 筑紫帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
竜之助の父弾正だんじょうが江戸から帰る時に、青梅近くの山林の中で子供の泣き声がするから、ともの者に拾わせて見ると丸々と肥った当歳児であった
ぴかぴかした𧘕𧘔かみしもを着た侍(宗十郎の浦上弾正だんじょう)が団十郎の前で切腹することになるのであるが、それが一旦うしろを向いて、刀を腹へ突き立てて
明治劇談 ランプの下にて (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
醒雪はその時分毿々さんさんたる黒い髯をれて大学生とは思われない風采であった。緑雨は佐々弾正だんじょうと呼んで、「昨日弾正が来たよ、」などとくいったもんだ。
斎藤緑雨 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
弾正だんじょう(伊達宗敏むねとし)さま御出府のあとにて、安房あわ(同宗実むねざね)さまが御上座、まず老臣誓書のことが出ました。
四囲の山と川を利用し、諸国の要塞の粋をとって築城したもので、当時は高坂弾正だんじょうが守備していた。
これは賢秀の心をる為に云ったのでは無く、其翌年鶴千代丸に元服をさせて、信長の弾正だんじょうちゅうの忠の字にちなみ、忠三郎秀賦ひでますと名乗らせて、真に其言葉通り婿にしたのである。
蒲生氏郷 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
将軍義輝よしてるしいされた。三好長慶ちょうけいが殺された、松永弾正だんじょうも殺された。今は下克上の世の中だ。信長が義昭を将軍に立てた。しかし間もなく追ってしまった。その信長も弑されるだろう。
南蛮秘話森右近丸 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
海老名えびな弾正だんじょう君司会のもとに、箱根山上、蘆の湖のほとりにおいてなしたものであります。
後世への最大遺物 (新字新仮名) / 内村鑑三(著)
三好の残党は、病人の足利義栄よしひでをかかえて、海路を阿波あわへ逃げ落ち、松永弾正だんじょう久秀も、とうとう屈して、信長の陣門に、降を乞うた。
新書太閤記:03 第三分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
一ノ関どの、涌谷わくやどの、弾正だんじょうどの、周防すおう、大条、片倉どの、おのれとも七人。立花侯、奥山大学は不参。
その又上に松永弾正だんじょうという蛇とも妖怪ともつかないような冷酷無慙なジイサンの睨みが怖しい。
織田信長 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
竜之助の父弾正だんじょうは尺八を好んで、病にかからぬ前は、自らもよく吹いたものです。子供の時分から、それを見習い聞き習った竜之助は、自分も尺八が吹けるのでありました。
大菩薩峠:07 東海道の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
「たとえば北条の身内にて、鮎川天九郎一羽斎いちばさい、武田信玄の家臣では、天目八兵衛馬之丞、松永弾正だんじょうの郎党には、十文字刑部鋭鎌介ぎょうぶとがまのすけ、これら一方の旗頭はたがしらに皆々お逢いでござろうな?」
蔦葛木曽棧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
「やあやあ、北伊勢の衆には、耳がないのでござるか。織田の臣、木下藤吉郎なる者、これまで参った由、早々、弾正だんじょう殿へお伝えあれや」
新書太閤記:03 第三分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
机の家へ拾われてから、弾正だんじょうの情けで、寺子屋教育のある部分だけを受けさせられたが、その当時の与八は、寺子屋教育の学問をさえ受入れられる素質を欠いておりました。
大菩薩峠:40 山科の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
遠江とおとうみ(伊達宗利)さま、一ノ関(兵部宗勝)さま、岩沼(田村右京)さまが拝謁はいえつし、次に、式部(伊達宗倫むねとも)さま、左兵衛(伊達宗親)さま、弾正だんじょう(伊達宗敏)さま、肥前(伊達宗房)さま
ところが、二階堂行春はやしきにいたが、土岐の弾正だんじょう頼遠よりとおのほうは、はや居ない。危険を感じて、自国の美濃へ逃げ帰ってしまったのである。
私本太平記:13 黒白帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
机竜之助の父の弾正だんじょうが、江戸からの帰りがけに通り合わせて、捨てられてからまだ二時ふたときとは経たない間に、それを拾い上げて、その時も今と同じように、弾正は江戸から馬で来て
大菩薩峠:26 めいろの巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
「私は国老として、その名を知っておく必要がある、と申しました、すると、一ノ関さまはもっともらしく頷かれ、ではおれに入れた者の名だけ云おう、それは弾正だんじょう(安敏)どのだ、と云われたのです」
去年の八月、小豆坂あずきざかの合戦で、敵の今川勢のなかへ駈け入り、功をあせったために、弾正だんじょうは重傷を負って、やっと帰った。
新書太閤記:01 第一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
竜之助の父弾正だんじょうの枕元に、宇津木兵馬と与八とが坐っております。
とりわけ当所は、以前から松永弾正だんじょう殿の奉行する采地さいち。町民も協力して侵略者に当り、たとえ尺地寸財たりとも、賊に利すような行為をしてはならない。
新書太閤記:03 第三分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
このおとこは、松永弾正だんじょう久秀という者で、もはやよい年でござるが、生涯、人にはできないことを三つなしとげておる。——第一は、足利公方くぼう光源院こうげんいん殿をころした。
新書太閤記:05 第五分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
阿曾あそ弾正だんじょう時治ときはる、長崎高真たかざね佐介貞俊さかいさだとし、以下いずれも、去年の千早包囲軍をひきいていた鎌倉方の首将や侍大将たちで、そのご奈良へ逃げ籠り、また奈良で敗れて
管領かんりょうの細川も松永弾正だんじょうも三好修理しゅりも、みな彼の手にかかっていたものだし、わけて禁中の御信任もあつく、余暇を施薬院せやくいんの業に尽し、また後輩のために学舎を設け
新書太閤記:07 第七分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
この時から、柳生一族は、筒井の隷属れいぞくから離れた。そして松永弾正だんじょうの七手の旗頭はたがしらとして重用された。
剣の四君子:02 柳生石舟斎 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
明智方にも、勇者は多かったが、奥田市之介、溝尾五左衛門、桜井新五、逸見木工允へんみもくのすけ、堀口三之じょう、磯野弾正だんじょう鳥山主殿助とりやまとのものすけなど、枕をならべて、討死をげてしまった。
新書太閤記:08 第八分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
そのとき、少弐の隊にいた饗庭あえば弾正だんじょう左衛門さえもんが、頼尚の馬前へ来て
私本太平記:11 筑紫帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「藪山の加藤? ……アア、織田の家中の加藤弾正だんじょうか」
新書太閤記:01 第一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「じゃあ、弾正だんじょうさんじゃろ」
新書太閤記:01 第一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)