北条ほうじょう)” の例文
旧字:北條
和学講談所(主として有職故実ゆうそくこじつを調査する所)のはなわ次郎という学者はひそかに安藤対馬の命を奉じて北条ほうじょう氏廃帝の旧例を調査しているが
夜明け前:01 第一部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
小田原城おだわらじょう北条氏政ほうじょううじまさどのは、若さまにとっては、叔父君おじぎみにあたるかたです。北条ほうじょうどのへ身をよせれば、織田家おだけ徳川家とくがわけも手はだせませぬ」
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
古来凡庸ぼんようの人と評しきたりしは必ずあやまりなるべく、北条ほうじょう氏をはばかりて韜晦とうかいせし人かさらずば大器晩成の人なりしかと覚え候。
歌よみに与ふる書 (新字新仮名) / 正岡子規(著)
もう一人、俵光石という房州北条ほうじょうの石屋さんがあります。この人が宅へ参ったのはちょっと話がある。
三帝を流したてまつりし北条ほうじょうの徒を英雄となし得ようか、諸君! 諸君は西郷南洲さいごうなんしゅうを英雄なりと称す、はたしてかれは英雄であるか、かれは傑出したる人材に相違ないが
ああ玉杯に花うけて (新字新仮名) / 佐藤紅緑(著)
左馬頭さまのかみ義朝の謀叛によって殺される運命にあったが、池禅尼の必死の嘆願で死を免れ、十四歳のとき、永暦えいりゃく元年三月二十日、伊豆国北条ほうじょうひる小島こじまに流されたものである。
かれが斯くまでに涙を呑んで経営した覇業も、源氏より北条ほうじょうに移って、北条もまた亡びた。
綺堂むかし語り (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
家康が武田の旧臣を身方に招き寄せている最中に、小田原おだわら北条新九郎氏直ほうじょうしんうろううじなお甲斐かい一揆いっきをかたらって攻めて来た。家康は古府こふまで出張って、八千足らずのせいをもって北条ほうじょうの五万の兵と対陣たいじんした。
佐橋甚五郎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
鎌倉山の大小名、和田北条ほうじょうをはじめとして、佐々木、梶原かじわら、千葉、三浦、当時一﨟いちろう別当の工藤などへは二三度へえり、まぶな時にゃあ千と二千、少ねえ時でも百や二百、仕事をしねえ事あなかった。
湯島詣 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
敦賀つるが大分おおいた名東みょうとう北条ほうじょう、その他福岡ふくおか鳥取とっとり、島根諸県には新政をよろこばない土民が蜂起ほうきして、斬罪ざんざい、絞首
夜明け前:04 第二部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
市松いちまつ、そこが昌仙のぬからぬところじゃ。われからことに援兵えんぺいをださせて、北条ほうじょう徳川とくがわなどの領地りょうちをさわがせ、そのに乗じておのれの野心をとげんとする。
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
徳川とくがわ北条ほうじょうなどという名だたる弓とりでさえも、その勢力範囲はんいへ手をつけることができないばかりか、戦時でも、野武士の区域くいきといえば、まわり道をしたくらい。
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
もし朝廷において一時の利得を計り、永久治安の策をなさない時には、すなわち北条ほうじょうの後に足利あしかがを生じ、前姦ぜんかん去って後奸こうかん来たるの覆轍ふくてつを踏むことも避けがたいであろう。
夜明け前:03 第二部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
海道かいどうの大勢と、今川、北条ほうじょう、武田、松平まつだいら織田おだなどの実力や趨勢すうせいにも、だいぶ通じることができた。
新書太閤記:01 第一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
北条ほうじょう足利あしかがをはじめ、織田おだ豊臣とよとみ、徳川なぞの武門のことはあからさまに書かれてないまでも、すこし注意してこれを読むほどの人で、この国の過去におもいいたらないものはなかろう。
夜明け前:02 第一部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
万世の後までも悪逆の名を流させようとする行為である、北条ほうじょう足利あしかがにもまさる逆謀というのほかはない、これには切歯せっし痛憤、言うべき言葉もないという意味のことが書いてあったという。
夜明け前:01 第一部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
小田原の北条ほうじょう
新書太閤記:01 第一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)