世子せいし)” の例文
すなわ曹国公そうこくこう李景隆りけいりゅうに命じ、兵を調してにわかに河南に至り、周王しゅく及び世子せいし妃嬪ひひんとらえ、爵を削りて庶人しょじんとなし、これ雲南うんなんうつしぬ。
運命 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
この時代には引きつづいて江戸の将軍の上洛じょうらくがあった。元和げんな九年には二代将軍秀忠が上洛した。つづいてその世子せいし家光も上洛した。
鳥辺山心中 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
すなわち寛永十一年八月、城主蒲生忠知が三十歳で病死すると、こんども世子せいしが無いというのを理由に、松山二十万石は取潰しとなったのだ。
日本婦道記:二十三年 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
そちの仕えまいらす当主の世子せいし吉孚よしのぶを、病弱にて、世嗣よつぎはなり難しなどと、吉保をもって柳営にいわしめ、他より養子を迎えておのれの功となし
梅里先生行状記 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
讃州高松さんしゅうたかまつ、松平侯の世子せいしで、貞五郎ていごろうと云ふのが、近習きんじゅうたちと、浜町はまちょう矢の倉のやしきの庭で、たこを揚げて遊んで居た。
妖魔の辻占 (新字旧仮名) / 泉鏡花(著)
継嗣正精は学を好み詩を善くし、棕軒そうけんと号した。世子せいしたりし日より、蘭軒を遇すること友人の如くであつた。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
薩藩と共に輦下れんか警衛の任に当たることにかけては、京都の屋敷にある世子せいし定広がすでにその朝命を拝していた。薩長二藩のこれらの一大飛躍は他藩の注意をひかずには置かない。
夜明け前:01 第一部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
メッサライナには、ブリタニカスと呼ばれる世子せいしがあった。父のクロオジヤスに似て、おっとりしていた。ネロの美貌を、盛夏の日まわりにたとえるならば、ブリタニカスは、秋のコスモスであった。
古典風 (新字新仮名) / 太宰治(著)
○同六月二十五日、紀州宰相世子せいしとなる。
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
七月、平安へいあん兵を率いて真定より北平に到り、平村へいそんに営す。平村は城をる五十里のみ。燕王の世子せいしあやうきを告ぐ。王劉江りゅうこうを召して策を問う。
運命 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
綱宗隠居のあと、世子せいしのことで難題を出し、あたかも、兵部の子を世子に直せ、といわんばかりの態度を示したのはなぜか。
長州藩では、藩の世子せいし長門守ながとのかみが、迎えに出た。また、五卿慰労の春帆楼の一夕いっせきには、藩士の桂小五郎かつらこごろうと、伊藤俊輔いとうしゅんすけが、あいさつを述べに、伺候した。
松のや露八 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
豊前国字佐郡の人で、同国中津の城主奥平大膳大夫昌高に仕へた。初め京都に入つて古義堂を敲き、後世子せいし昌暢まさのぶの侍読となつて江戸に来り、紀平洲等と交つた。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
まして、そんな旅人が世子せいしの内命を帯びて、中津川に自分を待つとは知らない。
夜明け前:01 第一部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
その一度は、公然お城へはいって、現在の藩主である自分の世子せいし綱条つなえだに会って、ねんごろに向後の施政——内治外策についてさとすところがあったという。
梅里先生行状記 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
景帝けいてい太子たりし時、博局はくきょくを投じて呉王ごおう世子せいしを殺したることあり、帝となるに及びて、晁錯ちょうさくの説を聴きて、諸侯のほうを削りたり、七国の変は実にこれに由る。
運命 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
綱宗さまには、亀千代君という紛れもなき世子せいしがあられる。されば、誰をお世継にするかなどという論の起こる筈もなし、まして入札などとはもってのほかのことだ。
所謂いはゆる松雨山房は春水が寛政元年に浅野家から賜つた杉木小路の邸宅である。是より先春水は浅野家の世子せいし侍読としてしば/\江戸に往来した。寛政十一年八月に至つて、世子は江戸に於て襲封した。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
京都の屋敷にある長藩世子せいし(定広)の内命を受けて、京都の形勢の激変したことを藩主に報じ、かねての藩論なる公武合体、航海遠略の到底実行せらるべくもないことを進言するためであった。
夜明け前:01 第一部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
つとに、この若殿の英才はみとめているが、何といっても、まだ十八の世子せいし、部屋住みの青年である。ふたりの漢学者の眼には、乳臭にゅうしゅうの人としか見えなかった。
梅里先生行状記 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
綱宗が藩主の位地をはなれ、世子せいしがまだきまっていない現在、「上意」という表現はもちいられない筈である。それをあえて呼称したからには、それだけの理由がある筈である。
亀千代が幕府から「世子せいし」と認められたのは万治三年八月であったが、家中にはいろいろ紛争が起こるし、あらぬ流言はひろまるし、伊達家の将来がはたして無事であるかどうか
世子せいしでいらせられます」
三国志:06 孔明の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
その月二日に将軍家光に世子せいしが誕生した、水野けんもつ忠善はその祝儀として久能山東照宮へ石の鳥居を奉納することになり、茅野かやの百記はその事務がしらとして久能山へ出張したのである
日本婦道記:箭竹 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
はち世子せいし
三国志:07 赤壁の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
右衛門佐うえもんのすけとは藩主水野家の世子せいし忠春ただはるのことをいう。
日本婦道記:墨丸 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)