物寂ものさ)” の例文
所は奈良で、物寂ものさびた春の宿にの音が聞えると云う光景が眼前に浮んでまでこれにふけり得るだけの趣味を持って居ないと面白くない。
高浜虚子著『鶏頭』序 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
暖か味のない夢に物寂ものさびた夜を明かしけるが、お浪暁天あかつきの鐘に眼覚めて猪之と一所に寝たる床よりそっと出づるも、朝風の寒いに火のないうちから起すまじ
五重塔 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
「冬近し」という切迫した語調に始まるこの句の影には、芭蕉に対する無限の思慕と哀悼あいとうの情が含まれており、同時にまた芭蕉庵の物寂ものさびた風情が、よく景象的に描きつくされている。
郷愁の詩人 与謝蕪村 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
車は物寂ものさびたるカムパニアの野を走りぬ。サン、ピエトロの寺塔は丘陵のあなたに隱れぬ。既にして我はモンテ、ソラクテの側を過ぎ、山をえてネピのまちに入りぬ。明月は市の狹きちまたを照せり。
奥座敷にて多人数が笑語の声の断続して柱に響くも物寂ものさびぬ。
貧民倶楽部 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
庵りというと物寂ものさびた感じがある。少なくとも瀟洒しょうしゃとか風流とかいう念とともなう。しかしカーライルのいおりはそんなやにっこい華奢きゃしゃなものではない。
カーライル博物館 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
言うまでも無く物寂ものさびた地だが、それでも近い村々に比べればまだしもよい方で、前にげた川上の二三ヶ村はいうにおよばず、此村これから川下に当る数ヶ村も皆この村には勝らないので
雁坂越 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
若い木の芽や材木のにおひをいでゐるのに、或る人は閑静の古雅を愛して、物寂ものさびた古池に魚の死体が浮いてるやうな、芭蕉庵ばしようあんこけむした庭にたたずみ、いつもその侘しい日影を見つめて居る。
田舎の時計他十二篇 (新字旧仮名) / 萩原朔太郎(著)
一抱ひとかかえもある松ばかりがはるかむこうまで並んでいる下を、長方形の石で敷きつめた間から、短い草が物寂ものさびて生えている。靴の底が石に落ちて一歩ごとに鳴った。
満韓ところどころ (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
長頭丸が時〻おしえを請うた頃は、公は京の東福寺とうふくじの門前の乾亭院かんていいんという藪の中の朽ちかけた坊に物寂ものさびた朝夕を送っていて、毎朝〻輪袈裟わげさを掛け、印を結び、行法怠らず、朝廷長久、天下太平
魔法修行者 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
縞柄しまがらだの品物などは余のような無風流漢には残念ながら記述出来んが、色合だけはたしかにはなやかな者だ。こんな物寂ものさびた境内けいだいに一分たりともいるべき性質のものでない。
趣味の遺伝 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
自分は三四分手帛を動かしたのち、急に肌を入れた。山門の裏には物寂ものさびた小さい拝殿があった。よほど古い建物と見えて、軒に彫つけた獅子の頭などは絵の具が半分げかかっていた。
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
私はそんなおっとりと物寂ものさびた空気の中で、古めかしい講釈というものをいろいろの人から聴いたのである。その中には、すととこ、のんのん、ずいずい、などという妙な言葉を使う男もいた。
硝子戸の中 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
余が寂光院じゃっこういんの門をくぐって得た情緒じょうしょは、浮世を歩む年齢が逆行して父母未生ふもみしょう以前にさかのぼったと思うくらい、古い、物寂ものさびた、憐れの多い、捕えるほどしかとした痕迹こんせきもなきまで、淡く消極的な情緒である。
趣味の遺伝 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)