新富町しんとみちょう)” の例文
明治五年新富町しんとみちょうの劇場舞台開きをなせし時、新柳二橋しんりゅうにきょうの歌妓両花道に並んで褒詞ほうしを述べたる盛況は久しく都人の伝称せし所なりけり。
桑中喜語 (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
「さあ、たしか、新富町しんとみちょう市川左団次たかしまやさんが、わびに連れてってくだすって、帰参きさんかなったんですが——ありゃあ、廿七、八年ごろだったかな。」
市川九女八 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
その夜も、彼はただ一人で、冷い秋雨あきさめにそぼ濡れながら、明石町あかしちょう河岸かしから新富町しんとみちょう濠端ほりばたへ向けてブラブラ歩いていた。
人造人間事件 (新字新仮名) / 海野十三(著)
やはり一方の座頭ざがしら株と認められていたのであるが、明治十年以後——いわゆる新富町しんとみちょうの全盛期になると、東京劇壇の覇権はけんはいつか団菊左の手に移って
明治劇談 ランプの下にて (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
新富町しんとみちょうの焼けた竹葉ちくようの本店にはふすまから袋戸ふくろど扁額へんがくまでも寒月ずくめの寒月のというのが出来た位である。
あれから帰りに新富町しんとみちょうの友達の家で話す中に雪となり、帰ったら病気が再発してまた医者通いを
鴎外の思い出 (新字新仮名) / 小金井喜美子(著)
長尾のむすめ敬の夫三河屋力蔵の開いていた猿若町さるわかちょう引手茶屋ひきてぢゃやは、この年十月に新富町しんとみちょううつった。守田勘弥もりたかんやの守田座が二月に府庁の許可を得て、十月に開演することになったからである。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
本所ほんじょ。鎌倉の病室。五反田ごたんだ同朋町どうほうちょう和泉町いずみちょう柏木かしわぎ新富町しんとみちょう。八丁堀。白金三光町しろがねさんこうちょう。この白金三光町の大きな空家あきやの、離れの一室で私は「思い出」などを書いていた。天沼あまぬま三丁目。天沼一丁目。
十五年間 (新字新仮名) / 太宰治(著)
女「貴方は新富町しんとみちょうへいらっしゃいましたか」
霧陰伊香保湯煙 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
男は伊三郎という新富町しんとみちょう見番けんばん箱屋はこやで、何でもここの家のおかみさんが待合の女中をしている時分じぶんから好い仲であったらしい。
雪解 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
新富町しんとみちょうの新富座の芝居茶屋おちゃやに——と、いっても、震災後の今日こんにちでは、何処どこのことか解りようがない。
朱絃舎浜子 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
ここを新富町しんとみちょうだの、新富座だのと云うものはない。一般に島原しまばらとか、島原の芝居とか呼んでいた。
綺堂むかし語り (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
「九日に、新富町しんとみちょうの研究所で行います。」
正義と微笑 (新字新仮名) / 太宰治(著)
京橋区内では○木挽町こびきちょう一、二丁目へん浅利河岸あさりがし(震災前埋立)○新富町しんとみちょう旧新富座裏を流れて築地川に入る溝渠○明石町あかしちょう旧居留地の中央を流れた溝渠。
葛飾土産 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
お千代は八丁堀はっちょうぼりの妾宅に、重吉はわずか二、三ちょうはなれた新富町しんとみちょうの貸間に新年を迎え、間もなく二月ぢかくになったが、尋ねる人の行衛ゆくえは一向にわからなかった。
ひかげの花 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
こう見えたってはばかりながら役者だ。伊井いい一座の新俳優だ。明後日あさってからまた新富町しんとみちょうよ。出揃でそろったら見に来給え。いいかい。楽屋口がくやぐちへ廻って、玉水たまみずを呼んでくれっていいたまえ。
すみだ川 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
肩のいかった身体付からだつきのがっしりした女であるが、長年新富町しんとみちょうの何とやらいう待合まちあいの女中をしていたとかいうので襟付えりつき紡績縞ぼうせきじま双子ふたこ鯉口半纏こいぐちはんてんを重ねた襟元に新しい沢瀉屋おもだかや手拭てぬぐいを掛け
雪解 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
新富町しんとみちょうですか。わたくしは……。」
深川の唄 (新字新仮名) / 永井荷風(著)