それは榎本君からかねて言い聞かされているので、わたしは戦々兢々せんせんきょうきょうとして老人の眼色をうかがっていたが、それでも時々に叱られた。
明治劇談 ランプの下にて (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
しかし一方の傅士仁たるや、このところ戦々兢々せんせんきょうきょうたるものがあった。ほりを深め城門を閉じ、物見を放って鋭敏になっていた。
三国志:10 出師の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
すると余のそばに立っていた是公が何と思ったものか、急にどうだ、あの樹を見ろ、戦々兢々せんせんきょうきょうとしているじゃないかと云った。
満韓ところどころ (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
石や瓦の雨どころか、血の雨が降るかもしれないというので、この数日、付近は戦々兢々せんせんきょうきょうとしている。そんなはなしだった。
巷説享保図絵 (新字新仮名) / 林不忘(著)
そしてその後に神の国の常夏は来るのだ。これが神の経綸けいりんにおける物ごとの自然的順序だ。何も戦々兢々せんせんきょうきょうとすることはない。
うかうかした事をしたらば大変な事が起りはすまいかというような疑いをいだいて、実に戦々兢々せんせんきょうきょうとして居る者があるんです。
チベット旅行記 (新字新仮名) / 河口慧海(著)
いずれも田舎侍いなかざむらいで、西洋料理などは見たことのない連中のみで、中には作法さほうを知らぬゆえ、いかなるご無礼ぶれいをせぬとも限らぬと、戦々兢々せんせんきょうきょうとし
自警録 (新字新仮名) / 新渡戸稲造(著)
実際はその享楽家的な外貌がいぼうの下に戦々兢々せんせんきょうきょうとして薄氷はくひょうむような思いの潜んでいることを、俺は確かに見抜いたのだ。
それはまあ未亡人や義兄の顔を立てるためもあったとして、あの見合いの席での、戦々兢々せんせんきょうきょうとした、いじけた気持は、どうしたと云うのであろう。
細雪:03 下巻 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
ただ、番頭たちは戦々兢々せんせんきょうきょうとして被圧的におそれているのだが、米友のは、小うるさいから会いたくねえという癇癪かんしゃくの一種に過ぎないだけの相違です。
大菩薩峠:35 胆吹の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
ただ楽屋に控えている翁の耳と眼ばかりを恐れて戦々兢々せんせんきょうきょうとして一番一曲をつとめ終り、翁の前に礼拝してタッタ一言「おお御苦労……」の挨拶を聞くまでは
梅津只円翁伝 (新字新仮名) / 夢野久作杉山萠円(著)
それだけに、一般の庶民はもちろん、殿上人の中にも山王の祟りを恐れて、戦々兢々せんせんきょうきょうとする者が多かった。
われは心ひそか赤痢せきりに感染せしなるべしと思ひ付くや人の話にてこの病の苦しさを知り心は戦々兢々せんせんきょうきょうたり。
矢はずぐさ (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
「H・S会社」は戦々兢々せんせんきょうきょうとしていた。社員も職工も仕事が手につかなかった。——それは三田銀行が日本の一流銀行である金菱銀行に合同されることから起った。
工場細胞 (新字新仮名) / 小林多喜二(著)
「隙見のトム」をきどりつつ、が、その場合にかぎりおもしろいなどという余裕のある気持でなく、むしろ機械的に、心中は戦々兢々せんせんきょうきょうと、その堺い目に吸いついてしまった。
放浪作家の冒険 (新字新仮名) / 西尾正(著)
ただ過失らしいことが一つあるだけでも世間はやかましく批難するだろうと戦々兢々せんせんきょうきょうとしていた青年の私でも、やはり恋愛をあさる男のように言われて悪く思われたものなのだ。
源氏物語:32 梅が枝 (新字新仮名) / 紫式部(著)
ほとんど戦々兢々せんせんきょうきょうたる態度で私たちに望むから、どうしたのかと思っていると、やがて、出し抜けに、日露戦争に勝ってくれてまことに有難いという。それにはすっかり恐縮して
踊る地平線:05 白夜幻想曲 (新字新仮名) / 谷譲次(著)
予は万々ることのあるべからざる理をもて説諭すれども、かれは常に戦々兢々せんせんきょうきょうとしてたのしまざりしを、ひそかに持余もてあませしが、今眼前まのあたり一本杉の五寸釘を見るに及びて予はおもいなかばに過ぎたり。
黒壁 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
「しかし天物を暴殄ぼうてんして、戦々兢々せんせんきょうきょうしているのも生き甲斐のない話だろう?」
秀才養子鑑 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
世界気の毒な政治家多しといえども、琉球の政治家ほど気の毒な政治家はいないだろうと存じます。戦々兢々せんせんきょうきょうとして薄氷を踏むがごとしという語は能く琉球政治家の心事を形容する事が出来ます。
琉球史の趨勢 (新字新仮名) / 伊波普猷(著)
あなたも御承知の通り、議会は非常な騒動で、議員達も戦々兢々せんせんきょうきょうと云う有様でした。誰れがその連判状をもっているかは、少しも解りません。とにかく連判状があると云う事だけは確かでした。
水晶の栓 (新字新仮名) / モーリス・ルブラン(著)
甚だ曖昧あいまいで、質問という声が出ないかと戦々兢々せんせんきょうきょうとしていたのである。
可能性の文学 (新字新仮名) / 織田作之助(著)
彼は戦々兢々せんせんきょうきょうとして馳け違いながら立ち働く兵士たちの間から、暇ある度に卑弥呼の部屋へ戻って来た。彼は彼女に迫って訴えた。しかし、卑弥呼の手には絶えず抜かれた一本のつるぎが握られていた。
日輪 (新字新仮名) / 横光利一(著)
戦々兢々せんせんきょうきょうとして迫害を怖れていた者が勇ましく乗り出してくるという、非常に目覚しい事実が起こってくる。それは皆復活の信仰を得た結果なんです。
キリスト教入門 (新字新仮名) / 矢内原忠雄(著)
武蔵たけぞうが復讐に来るだろうという噂で、お杉ばばも家族も、戦々兢々せんせんきょうきょうとして門を閉じ、出入り口にも鹿垣を作った。
宮本武蔵:02 地の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
それはあるいは、私の頻繁ひんぱん過ぎる要求に絶えず戦々兢々せんせんきょうきょうとしている結果、かえってそんな風になるのかも知れない。———私は実利一点張りで、情味がないのだそうである。
(新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
また民衆もその絶えまなき動流の土に耕し、その戦々兢々せんせんきょうきょうたるもとに子を生み、流亡も離合も苦楽もまたすべての生計も、土蜂つちばちの如く戦禍のうちに営んできた。
三国志:10 出師の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「どうなることか」と、戦々兢々せんせんきょうきょうたる人心の不安は去りきれなかった。
三国志:03 群星の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)