)” の例文
輪王寺宮慈性親王病すみやかなるをもて、能久親王職をがせ給ふ。いで慈性親王薨ぜさせ給ふ。将軍徳川慶喜政権を朝廷に還しまつる。
能久親王年譜 (新字旧仮名) / 森鴎外森林太郎(著)
いで師の教えを受け、各この薬を磨くに、竜樹かおりぎてすなわち便ただちにこれを識る。数の多少を分かつに、錙銖ししゅも失うなし。
寛政の初、市河寛斎がここに江湖詩社を開き、いで大窪詩仏が文化の末より文政の終までまたここに居邸を構えていた。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
太閤こうじ、紹巴没し、豊臣氏いで滅び、徳川氏まつりごとを江戸に執るに及びて、連歌は僅にその形骸けいがいを保つに止まり、しかして松永貞徳の俳諧一派はようやく世に拡まらんとす。
古池の句の弁 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
そは輕々しく事を斷ずれば誤りやすく、情またいで智をほだすにいたればなり 一一八—一二〇
神曲:03 天堂 (旧字旧仮名) / アリギエリ・ダンテ(著)
欽明天皇の御世にほろんだ任那みまな日本府を復興せんとし、屡々新羅しらぎを御征討になつたし、又推古天皇の十五年小野妹子をののいもこを隋に遣はされて対等の国際的関係を結ばれ、いで高向玄理たかむくのくろまろ
二千六百年史抄 (新字旧仮名) / 菊池寛(著)
天長和尚の関捩くわんれいを透破し、繋留けいりう久しからず花園妙心寺聖沢院の庸山ようざんの室に投じ(中略)——三十五歳、初めて法山第一坐となり、美濃正伝寺の請に応じ、いで大仙寺の廃を興す。
随筆 宮本武蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
いでわたくしは保さんをおうと思っていると、たまたまむすめ杏奴あんぬが病気になった。日々にちにち官衙かんがにはかよったが、公退の時には家路を急いだ。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
獼猴いで瞋り、その耳鼻を攫し、傷破してすなわち去る、この比丘波羅夷を得、まさに共に住すべからず〉、巻五五に、仏毘舎離びしゃりにあった時
イデ神奈川奉行手附ト為ル。班ヲ支配勘定ニ進ム。文久壬戌秋八月家ヲ携ヘテ横浜ニ移ル。明年癸亥六月二十二日病没ス。享年四十六。江戸三田ノ薬王寺ニ帰送ス。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
宮中の美人、皆侵掠され、百余日の後、懐妊する者おおく、いで往きて王にもうし、罪咎ざいきゅうを免れんとねがう。王これを聞きおわりて、心大いに悦ばず、云々。
嘉永四年には、二月四日に抽斎の三女で山内氏を冒していた棠子とうこが、痘を病んで死んだ。いで十五日に、五女癸巳きしが感染して死んだ。彼は七歳、これは三歳である。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
いで抽斎は再び弘前へ往って、足掛三年淹留えんりゅうした。留守に父の亡くなった旅である。それから江戸に帰って、中一年置いてよしが生れ、その翌年また八三郎が生れた。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
十月二十七日京都を発せさせ給ひ、うるふ十月二日東京なる東伏見宮第に着かせ給ひ、いで有栖川宮第にうつらせ給ふ。能久の名にかへらせたまひ、伏見満宮と称へさせ給ふ。
能久親王年譜 (新字旧仮名) / 森鴎外森林太郎(著)