万籟ばんらい)” の例文
旧字:萬籟
万籟ばんらいげきとして声をむ、無人の地帯にただ一人、姉の死体を湖の中へ引きり込むスパセニアの姿こそ、思うだに凄愴せいそう極まりない。
墓が呼んでいる (新字新仮名) / 橘外男(著)
星一つ一つこずえに下り、梢の露一つ一つ空に帰らんとす。万籟ばんらいせきとして声なく、ただ詩人が庭の煙のみいよいよ高くのぼれり。
(新字新仮名) / 国木田独歩(著)
万籟ばんらい静まり返った比叡と鞍馬の山ふところ、いずこからともなく、人が一個出て来た、その物音で、足をとどめてその気配に耳を傾けました。
大菩薩峠:41 椰子林の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
此時たちま轣轆れきろくたる車声、万籟ばんらい死せる深夜の寂寞せきばくを驚かして、山木の門前にとどまれり、剛一は足をとどめてキツとなれり
火の柱 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
と——躑躅つつじさきたち高楼こうろうにあたって、万籟ばんらいもねむり、死したようなこの時刻に、嚠喨りゅうりょうとふくふえがある。
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
風静かに気沈み万籟ばんらい黙寂たるの時に、急卒一響、神装をらして眼前めのまへ亢立かうりつするは蓮仙なり、何の促すところなく、何の襲ふところなく、悠然泥上に佇立ちよりつする花蕾の
心機妙変を論ず (新字旧仮名) / 北村透谷(著)
それよりももッと不思議なは、忽然として万籟ばんらい死して鯨波ときのこえもしなければ、銃声も聞えず、音という音は皆消失せて、唯何やら前面むこうが蒼いと思たのは、大方空であったのだろう。
伝内はこの一言ひとことを聞くとひとしく、窪める両眼に涙を浮べ、一座退すさりて手をこまぬき、こぶしを握りてものいわず。鐘声遠く夜は更けたり。万籟ばんらい天地声なき時、かどの戸をかすかに叩きて
琵琶伝 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
御経は心に誦するとおぼしく、万籟ばんらい絶えたるに珠の音のみをたゞ緩やかに緩やかに響かす。
二日物語 (新字旧仮名) / 幸田露伴(著)
併しその悲しい処にも趣がないでもない。更けて行く夜に、細り行く虫の音を聞き、万籟ばんらい寂たるときに、さらさらと一枝の筆を走らせておると、面白い処がある。が、もう疲れて来た。
鹿山庵居 (新字新仮名) / 鈴木大拙(著)
そうして万籟ばんらいは静まり返り、木食仙人の声ばかりが、谷に山に木精こだました。
蔦葛木曽棧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
周囲に谷川のせせらぎすらも聞えない。軒端を渡る夜風のそよぎすら聞えないところを以て見れば、万籟ばんらい死したりと感ずるのは無理もありません。
大菩薩峠:27 鈴慕の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
汝今日の狂喜は他日汝の裏に熟して荘重深沈なるよろこびと化し汝の心はまさにたのしき千象の宮、静かなる万籟ばんらいの殿たるべし。
小春 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
が、この無人の高原地帯では、万籟ばんらい寂として天地あらゆるものが、声をんで深い眠りに落ちているのです。
墓が呼んでいる (新字新仮名) / 橘外男(著)
而して活動なるものは「我」をめぐりて歩むものにして、「我」を離るゝ時は万籟ばんらい静止するものなり、自己の「我」は生存を競ふものなり、法の「我」は真理に趣くものなり
ふけ行くまゝに霜冴えて石床せきしやういよ/\冷やかに、万籟ばんらい死して落葉さへ動かねば、自然おのづしん魂魄たましひも氷るが如き心地して何とはなしに物凄まじく、尚御経を細〻と誦しつゞくるに
二日物語 (新字旧仮名) / 幸田露伴(著)
時に万籟ばんらいせきとして、地に虫の這う音も無く、天は今にもふらせんずる、みぞれか、雪か、あられか、雨かを、雲のたもとに蔵しつつ微音をだに語らざる、そのしずかさに睡りたりし耳元に、「カチン」と響く鉄槌の音は
黒壁 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
今の時はうし三ツ、万籟ばんらいが熟睡に落ちております、この静かな世界におりながら、私もこの世界が騒々しいと思い、米友さんも騒々しいと思う、誰が騒いでおりますか
大菩薩峠:40 山科の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
表面は何食わぬ顔をして万籟ばんらい声なき最中なるに、おそらくは電信機の火花を散らして世界にめぐらした秘密触手を動かしているであろう英国大使館の姿が思わず慄然ぞっと想像されてきたのであった。
ナリン殿下への回想 (新字新仮名) / 橘外男(著)
どれだけの音声を聞きわけるの官能を与えられているか知れませんが、この万籟ばんらい死したるところの底において、ついに何物をか聞き出そうとして聞き出し得たものの如く
大菩薩峠:27 鈴慕の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)