おもね)” の例文
息子の亘は父がそんな事を思ひ悩んで居るとは知らず、親におもねる小供の技巧の、おづ/\するやうな甘へた口調で、猶も問を進めて行つた。
(新字旧仮名) / 久米正雄(著)
権勢にも富貴にもおもねらぬ境遇の気楽さは食祿と家名に縛られて、牢獄の中にいる大名に比べて、どちらが本当の幸せであろう。
本当に求道心が燃えて居れば、自他におもねる心を焼きつくして、素朴な心にかえることが出来る。素朴な心こそは、仁に近づく最善の道なのだ。
論語物語 (新字新仮名) / 下村湖人(著)
即座に母が合槌あひづちを打つた。下男も父母におもねつた眼で私を見た。私は意地にも万難を排し他日必ず雪子と結婚しようと思つた。
途上 (新字旧仮名) / 嘉村礒多(著)
「それあそうさ、明日になつて、牛込の叔父さんの処へ行く約束があるんだよ。叔父さんから受取る金があるんだよ。」などと巧みに女におもねつた。
小川の流れ (新字旧仮名) / 牧野信一(著)
その一月、「不同調」という雑誌に私は作品を発表したが、その流行におもねるような作品で、醜を曝したからである。
澪標 (新字新仮名) / 外村繁(著)
偽善者とそうでない者との区別は、阿諛的であるかどうかにあるということができるであろう。ひとにおもねることは間違ったことを言うよりもはるかに悪い。
人生論ノート (新字新仮名) / 三木清(著)
此一首は頗る大家の気象に乏しく、蘭軒はその好む所におもねつて、語に分寸あること能はざるに至つたと見える。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
四方の小地主や地侍は、招かずして、豊田の門に馬をつなぎに来、そろそろ、将門の耳には、甘い世辞や、彼をもちあげるおもねりが、集まりかけているのである。
平の将門 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
そしてわずかにそこからい出ると、べそをかきながら又匍匐を続けて行く。このいたいけな姿を憐れむのを自己におもねるものとのみ云い退けられるものであろうか。
惜みなく愛は奪う (新字新仮名) / 有島武郎(著)
人におもねったり、主人に取入ったりするようなところが少しもなかった。誰に対しても、一対一で向っていた。それだけに頑固で人に譲らぬところがあったけれども。
おじさんの話 (新字新仮名) / 小山清(著)
『大日本史』の大業を成就して、大義名分を明らかにし、学問を曲げてまで世におもねるものもある徳川時代にあってとにもかくにも歴史の精神を樹立したのは水戸であった。
夜明け前:02 第一部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
「勅勘を受けた人というものは、自由に普通の人らしく生活することができないものなのだ。風流な家に住んで現代を誹謗ひぼうして鹿しかを馬だと言おうとする人間におもねる者がある」
源氏物語:12 須磨 (新字新仮名) / 紫式部(著)
自からおもねらず、自から曲げず、おのれに誇ることなく、人をいやしむことなく、夙夜しゅくや業を勉めて、天の我にあたうるところのものをまんにすることなくんば、あにただ社中のよろこびのみならん。
中元祝酒の記 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
人に使われつけている身が主筋に対して、何ぞの愛嬌に、身うちのことを手柄のように暴露して、へつらおもねる例は世間によくあり勝ちです。嘉六はいまそれをやっているのでしょうか。
生々流転 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
そして、相変らず揉み手をしながら、おもねるような鈍い柔らか味のある調子で云った。
黒死館殺人事件 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
日本に媚びず露国におもねらず、其他何れの国のお世話も差し出も願はず、小さき半島の自然に満足して気楽なる生涯を送らんとするものがあるならば、我倫理的帝国主義者は如何なる口実と権利を以て
わたくしが抽斎の心胸を開発して、劇の趣味を解するに至らしめた人々に敬意を表して、これを学者、医者、画家の次に数えるのは、好む所におもねるのではない。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
筆蹟もよく、四角な文字も読めるという噂ですが、武芸は大したことがないらしく、人におもねらぬ武骨さを買われて、界隈かいわいの評判はそんなに悪い方ではありません。
「ま。くちおしい限りではございませぬか。万乗の大君をして、さまで幕府の鼻息びそくおもねるような策をおすすめ申さいでも、毎日の公卿集議には、もそッとほかによいお智恵も」
私本太平記:02 婆娑羅帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
決して彼女の習慣におもねらぬぞ——私は、そんなことを思つた。
環魚洞風景 (新字旧仮名) / 牧野信一(著)
などというおもねりは、おかしくもあり、苦々しくも思われて、嘘にもいえない頼房であった。
梅里先生行状記 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
あえて世道人心を裨益ひえきしようなどという、大それた自惚うぬぼれは持っていないまでも、娯楽に重点を置き過ぎ、読者の好奇心におもねって、人の子を毒するようなことでは、遅かれ早かれ
低俗な趣味におもねりきれない、絶大な自尊心があったためではなかったであろうか。
楽聖物語 (新字新仮名) / 野村胡堂野村あらえびす(著)
「いや。木下がいかん。多勢してお附添いしては、眼につくなどと、殿におもねって」
新書太閤記:04 第四分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
黒津は男爵におもねるように、窓から夕暮の景色を眺め乍ら、こう言います。
判官三郎の正体 (新字新仮名) / 野村胡堂(著)
つまり秀郷は尊大に構え、貞盛はそれにおもねるのほかはない。
平の将門 (新字新仮名) / 吉川英治(著)