火熨斗ひのし)” の例文
千登世は仕上の縫物に火熨斗ひのしをかける手を休めて、目顏を嶮しくして圭一郎をなじつたが、直ぐ心細さうにしをれた語氣で言葉を繼いだ。
崖の下 (旧字旧仮名) / 嘉村礒多(著)
どうやら底にまだ雨気あまきがありそうで、悪く蒸す……生干なまびの足袋に火熨斗ひのしを当てて穿くようで、不気味に暑い中にひやりとする。
吉原新話 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
左の端には火熨斗ひのしぐらいの大きさの鐘がやはり枠の中に釣るしてあった。そのほかにはことが二面あった。琵琶びわも二面あった。
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
数日まえからぎれをつづり縫いしていた母は、ちょうどそれを仕上げて火熨斗ひのしをかけているところだった、座蒲団を細く小さくしたようなものである。
日本婦道記:梅咲きぬ (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
其れには平常いつもの通り、用箪笥だの、針箱などが重ねてあって、その上には、何時からか長いこと、桃色甲斐絹かいきの裏の付いた糸織の、古うい前掛に包んだ火熨斗ひのしが吊してある。
別れたる妻に送る手紙 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
と、珍しくも私の服を出して来てくれ、ほこりを払ったり火熨斗ひのしをかけたりしてくれました。
痴人の愛 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
つやのない火にほてった赤毛の小娘が、そのせ細った両腕を肩の近くまで裸にし、胸衣をくつろげて、火熨斗ひのしをかけていた。彼女はいつものとおり厚かましい色目を使ってみせた。
中には赤裸あかはだかの彼がある。見物人は、太陽と雀と虫と樹と草と花と家ばかりである。時々は褌の洗濯もする。而してそれをかえでの枝にらして置く。五分間で火熨斗ひのしをした様に奇麗に乾く。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
十時過ぎであったが、わたしは台所につづいた仏間で火鉢によりかかりながら、新しいわたしの着物に火熨斗ひのしをかけていた母に新聞の続き物を読んで聞かせてやっていた。そのときである。
三等郵便局 (新字新仮名) / 尾崎士郎(著)
いつも綿を入れたり、火熨斗ひのしをかけている女房おかみさんは、平面ひらおもてではあったが目に立つ顔で、多い毛を、太いのおばこに結っていた。岩井松之助という、その頃の女形の役者に似ている気がした。
派手好きな鴈治郎は、刃傷にんじやうの場で思ひきり派手なき方をして舞台を巧くさらへてかうと註文をつけてゐたらしかつた。で、火熨斗ひのしをあてた白襦袢しろしやつのやうに、真青に鯱子張しやちこばつて舞台へ出た。
仕切りと合せて正札しょうふだの付け替えもいたさなければなりませず、皺のできておりますところへは霧を吹いて火熨斗ひのしも当てなければなりませんし、三、四日は急に眼の廻るようなせわしさでございました。
蒲団 (新字新仮名) / 橘外男(著)
「もとよりです、あの子の立ち姿から、坐ったところ、火熨斗ひのしを持って梯子段ののぼり下り——浴槽の中だけは遠慮しまして、ちょっと帯を解いて、この浴室の戸をあけた瞬間の姿はとってあります」
大菩薩峠:32 弁信の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
火熨斗ひのしを掛けて、ちゃんとしまって、それなり手を通さないでも、ものの十日もつと、また出して見て洗い直すまでにして、頼まれたものは
陽炎座 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
津田は縁側えんがわへ腰をかけた。叔母はあがれとも云わないで、ひざの上にせた紅絹もみきれへ軽い火熨斗ひのしを当てていた。
明暗 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
叔母は先刻さっき火熨斗ひのしをかけた紅絹もみきれ鄭寧ていねいに重ねて、濃い渋を引いた畳紙たとうの中へしまい出した。
明暗 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
ようこそなあ——こんなものに……つらも、からだも、山猿に火熨斗ひのしを掛けた女だと言われたが、髪の毛ばかりみんなめた。もう要らん。小春さん。あんた、油くさくて気の毒やが、これを
みさごの鮨 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)