丹前たんぜん)” の例文
二人の間には火鉢があって、引馬野ひくまのを渡って来る夜風が肌寒いから、竜之助は藍木綿あいもめんの着衣の上に大柄おおがら丹前たんぜんを引っかけていました。
大菩薩峠:07 東海道の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
家に在る時は、もっぱら丹前たんぜん下の浴衣である。銘仙の絣の単衣は、家内の亡父の遺品である。着て歩くとすそがさらさらして、いい気持だ。
服装に就いて (新字新仮名) / 太宰治(著)
誰か、——部屋の中には女のほかにも、丹前たんぜん羽織はおった男が一人、ずっと離れた畳の上に、英字新聞をひろげたまま、長々ながなが腹這はらばいになっている。
(新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
地元は別として、主として京、大阪の町々で売られた。この布の主要な用途は夜具地である。時としては丹前たんぜんに、稀には着物としても用いられた。
工芸の道 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
数本の桜の大樹が、美事に返咲きしている奥庭の広縁に、筑前藩主、黒田忠之ただゆき丹前たんぜん、庭下駄のまま腰を掛けていた。
名君忠之 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
ふすまの中からそんな声がした。——山岡屋が開けてみると、丹前たんぜんを被って、腹這はらばいになっている男が寝呆ねぼけ眼をあげ
魚紋 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
いつものとおり、行燈あんどん燈芯とうしんを一本にしてこっちに向いているほうへ丹前たんぜんを掛けておくことも、忘れてないのだ。
巷説享保図絵 (新字新仮名) / 林不忘(著)
そこへ一方のふすまいて眼の大きな年増のじょちゅうが入って来た。婢はお時と云うのであった。お時は二本の銚子を手にしていた。お時は丹前たんぜんに愛想笑いをした。
春心 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
そして丹前たんぜん羽織はおると、縁側に出て、雨戸をガラガラと開いた。とたんに彼は、ちんのように顔をしかめて
蠅男 (新字新仮名) / 海野十三(著)
「よくってよ。とにかくそこまでいっしょに行くわ! さアこのあたしの丹前たんぜんにおくるまりなさい。」
そうしてそのお柳は少したったのちには、この家の奥の茶の間にすわって、丹前たんぜんを着た三十五、六の、眼の鋭い、口元の締まった武士と、砕けた様子で話していました。
怪しの者 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
男は二十七八歳、女はそれより二つ三つ年上、二人とも温泉宿のゆかたに丹前たんぜんをかさねている。
断崖 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
考えると、丹前たんぜんの礼をこれで三べん云った。しかも、三返ながら、ただ難有うと云う三字である。
草枕 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
たつた一つしかない樂屋の大部屋に、不味まづさうに煙草を喫んで居た座主の百太夫は、平次の姿を見ると、引つ掛けてゐた丹前たんぜんを滑らせて、それでも丁寧に挨拶するのでした。
丹前たんぜんをひっかけた波子のうしろから俺は、抱きしめるなんてことじゃなくて、襲いかかった。
いやな感じ (新字新仮名) / 高見順(著)
家の中には燈火あかりがかんかんとついて、真暗なところを長い間歩いていたぼくにはたいへんうれしかった。寒いだろうといった。葛湯くずゆをつくったり、丹前たんぜんを着せたりしてくれた。
火事とポチ (新字新仮名) / 有島武郎(著)
夜具といっても、夏のことで、敷ぶとんと丹前たんぜんぐらいだった。
次郎物語:02 第二部 (新字新仮名) / 下村湖人(著)
そのあとで、机竜之助は、丹前たんぜんを肩から引っかけて、両手をそのえりから出し、小机の前に向って、静かに罨法あんぽうを施しておりますと
大菩薩峠:23 他生の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
この丹波布が京都の朝市に出廻るのは、京阪地方の人々が之を好んで布団表ふとんおもてに用いたからである。時には丹前たんぜんもあったが、多くは掛布団や敷布団であった。
京都の朝市 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
が、大勢おおぜいの面会人は誰も存外ぞんがい平気らしかった。殊に丹前たんぜんを二枚重ねた、博奕ばくち打ちらしい男などは新聞一つ読もうともせず、ゆっくり蜜柑みかんばかり食いつづけていた。
(新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
つづいてまた一本の脚が、すこしブルブルふるえながら現われた。それから黄八丈きはちじょうまがいの丹前たんぜんが——。
蠅男 (新字新仮名) / 海野十三(著)
崖の離屋はなれでは三人の男が顔をあわしていた。三人のうちの一人は四十四五で、素肌へ茶の縦縞の薄い丹前たんぜんていたが、面長おもながの色の白い顔のどこかに凄味すごみがあった。
春心 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
そうして宿の丹前たんぜんに羽織をひっかけ、こうなれば一つその地蔵様におまいりでもして、そうしてここを引き上げようと覚悟をきめた。宿を出ると、すぐ目の前に見世物小屋。
黄村先生言行録 (新字新仮名) / 太宰治(著)
番頭は平次を案内して納戸につれ込むと、女中の手をかりて十七八枚の丹前たんぜんを出しました。
長火鉢のむこうに、芸者屋に生獲いけどりになった兄さんのように、荒い丹前たんぜんか何か引っかけて、女みたいな顔でやに下っているのが、これぞ、江戸に聞えた喧嘩の専門家、観化流皆伝かいでん達剣たっけん、茨右近だ。
魔像:新版大岡政談 (新字新仮名) / 林不忘(著)
「よし、いい」丹前たんぜんは気がいたように揉あげの背後姿うしろすがたへ眼をやった。「大丈夫だ、うんと飲みな」
春心 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)