重陽ちょうよう)” の例文
五節供の中でもいわゆる重陽ちょうようだけは、ことに中国から学んだ式典と、日本民間の古習とが、十分な調和を遂げていなかったように思う。
年中行事覚書 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
が、梁山泊にとって、記念すべきこの重陽ちょうようの会は、決して無意味ではなかった。それは宣和せんな二年九月九日のことで、明ければ
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
題して『十日の菊』となしたのは、災後重陽ちょうようを過ぎて旧友の来訪に接した喜びを寓するものと解せられたならば幸である。
十日の菊 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
九月八日の午前ひるまえに、林之助はちょっとの隙きを見て両国へ行った。あしたは重陽ちょうようの節句で主人も登城しなければならない。
両国の秋 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
九月九日の重陽ちょうようの日になった。十一娘はせてささえることもできないような体になっていた。両親は侍女にいいつけて強いてたすけて庭を見せにいかした。
封三娘 (新字新仮名) / 蒲 松齢(著)
かくて、信玄は海津城に謙信は妻女山に相対峙すること十余日に及んで、いつか九月九日重陽ちょうようの節句になった。
川中島合戦 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
私よりおくわしいと存じますが、浅草の観世音に、旧、九月九日、大抵十月の中旬なかば過ぎになりますが、その重陽ちょうようせつ、菊の日に、菊供養というのがあります。
菊あわせ (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
重陽ちょうようのえんはまいねんのことでござりますけれども、べっしてそのみぎりは大小名がよそおいをこらしてお礼にまいられ、ごんごどうだんのぎしきのありさま
盲目物語 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
重陽ちょうようの日も旅にあって馬にまたがりつつあることを、「馬の背の高きに登り」と登高に擬して興じたのである。
古句を観る (新字新仮名) / 柴田宵曲(著)
粂野美作守の重役を七里先から呼ばんければなりません、九の字の付く客を二九十八人招待しょうだいを致し、重陽ちょうようを祝する吉例で、作左衞門はの野菊白菊の皿を自慢で出してせます。
菊模様皿山奇談 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
赤穴は、「九月九日、重陽ちょうよう佳節かせつをもって帰ってくる日ときめましょう」とこたえる。
九月重陽ちょうようの前日のことであったが、草庵の庭へ、とつぜん十五人ばかりの侍たちが入って来た。かれらはみな小具足を着け、五人は槍、五人は鉄砲を持ち、そうして四人が輿こしを担いでいた。
似而非物語 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
「この秋の重陽ちょうよう(陰暦九月九日の菊ノ節句)はどうかと、昨日、赤橋どのから正式に相談してまいられましたが」
私本太平記:02 婆娑羅帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
九月は菊がまだ見られぬ夏休の中なので、もう多くの村では重陽ちょうようを説くことをやめた。
雪国の春 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
風雨は暁明に至ってわずかんだが天候は容易に恢復かいふくせず重陽ちょうようの節句も雨の中に過ぎた。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
「それはねえお姉さま、お城でもう五日すると重陽ちょうようの御祝儀がございましょう、それが済んだらわたくしたち三人で、栃尾とちのお湯泉いでゆへ保養にゆきたいと思いますの、そのおさそいにあがったのですけれど」
日本婦道記:風鈴 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
五節ごせちはもちろん、残菊の宴、重陽ちょうようの会などは、恒例こうれいの宮廷年中行事であるが、選虫の会だとか、初雪見参などは、むかしからめったになかった御遊らしい。
枕山の小引及び遠山雲如の跋があっていずれも重陽ちょうよう前三日あるいは一日としてある。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
九月九日は重陽ちょうよう節句せっくである。この誓いの式は「菊花の会」につづき、山も風流な宴にいろどられた。月明の下、馬麟ばりんしょうを吹き、楽和がくわはうたい、また燕青えんせいことを奏でた。
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
即ち重陽ちょうようの節句に当っていたのであろう。
十九の秋 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
それきり宋江の至誠をわらうどころか、みな恥じる色だったが、いかんせん、せっかくな重陽ちょうようの宴は理におちて、浮かれず仕舞いの散会となってしまっただけはぜひもない。
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「そちたちも忘れたか。九月九日、重陽ちょうようの佳節。きょうはいにしえから菊見る日とされてある」
上杉謙信 (新字新仮名) / 吉川英治(著)