逢坂おうさか)” の例文
程もなく逢坂おうさかふもと走井はしりいの茶屋の店さきへかかると、一同はまン中の駕を下ろし、群蝶のくずれるように茶店の内や外に散らばった。
鳴門秘帖:01 上方の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
前の方に逢坂おうさか比叡ひえい、左に愛宕あたご鞍馬くらまをのぞんだ生絹は、何年か前にいた京の美しい景色を胸によみがえらせた。
荻吹く歌 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
すると敵勢てきぜい近江おうみ逢坂おうさかというところまでにげのびて、そこでいったんとどまって戦いましたが、また攻めくずされて、ちりぢりににげて行きました。
古事記物語 (新字新仮名) / 鈴木三重吉(著)
小関はすなわち逢坂おうさかの関の裏道であって、本道は名にし負う東海道の要衝であるにかかわらず、この裏道には、なお平安朝の名残なごりをとどめて、どうかすると
義経が宗盛親子をつれ鎌倉へ旅立ったのは、元暦げんりゃく二年五月七日のことである。途中、次第に遠ざかる都の景色に離れ難い思いを味わいながら、逢坂おうさかの関まで来た。
もしそれ明月皎々こうこうたる夜、牛込神楽坂うしごめかぐらざか浄瑠璃坂じょうるりざか左内坂さないざかまた逢坂おうさかなぞのほとりにたたずんで御濠おほりの土手のつづく限り老松の婆娑ばさたる影静なる水に映ずるさまを眺めなば
一行が逢坂おうさかの関を越えようとする日は、偶然にも源氏が石山寺へ願ほどきに参詣さんけいする日であった。京から以前紀伊守きいのかみであった息子むすこその他の人が迎えに来ていて源氏の石山もうでを告げた。
源氏物語:16 関屋 (新字新仮名) / 紫式部(著)
古い伝えは延喜えんぎの昔に。あのや蝉丸せみまる逆髪さかがみ様が。何の因果か二人も揃うて。盲人めくらと狂女のあられぬ姿じゃ。父の御門みかどに棄てられ給い。花の都をあとはるばると。知らぬ憂目に逢坂おうさか山の。
ドグラ・マグラ (新字新仮名) / 夢野久作(著)
『敏行歌集』に「逢坂おうさかのゆふつけになく鳥の名は聞きとがめてぞ行き過ぎにける」、鳥も夕を告げて暮に向う頃なるに関守せきもりは聞き咎めもせず関の戸も閉ざさざれば人も行き過ぎぬとなり。
立ち話もそんな場所ではできず、前から部屋を頼んでおいた近くの逢坂おうさか町にある春風荘という精神道場へ行こうとすると、新聞の写真班が写真をるからちょっと待ってくれと言いました。
アド・バルーン (新字新仮名) / 織田作之助(著)
春なれば茶摘みのさま汽車の窓より眺めて白手拭の群にあばよなどするも興あるべしなど思いける。大谷おおたにに着く。この上は逢坂おうさかなり。この名を聞きて思い出す昔の語り草はならぶるもくだなるべし。
東上記 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
同行三 逢坂おうさかせきを越えてここは京と聞いたとき私は涙がこぼれました。
出家とその弟子 (新字新仮名) / 倉田百三(著)
ただ恨みは、近江おうみの湖畔へ出ても、瀬田の唐橋を渡っても、また逢坂おうさかの関を越えても、とうとう武蔵の消息はわからないでしまったことである。
宮本武蔵:04 火の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
いつ、どうして木曾を通ったか、不破ふわ逢坂おうさかの関を越えたのはいつごろであったか、そんなことは目にも留まらないうちに、早や二人は京都の真中の六角堂あたりへ身ぶるいして到着しました。
大菩薩峠:17 黒業白業の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
そのほか、昨夜以来の配置によって、醍醐だいご山科やましな逢坂おうさか、吉田、白河、二条、七条、らくの内外いたるところも、秀吉指揮下の隊が部署についていない方面はない。
新書太閤記:08 第八分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
彼にひきいられた一軍は、血と泥と疲労にまみれた惨烈なかたまりをなして、瀬田方面から逢坂おうさかをこえてきた。——近江で大勝したのである。——だが、兵は凱歌がいかにわく気力もなかった。
私本太平記:12 湊川帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
四明ヶ岳や逢坂おうさかの山の彼方に、終日ひねもす、黒煙が立ちのぼって見えたので、四年前の保元の乱の時よりも、こんどの合戦は大きかったにちがいないと、湖畔の駅路や宿々では伝え合っていたところへ
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
登れば逢坂おうさか、西は三井寺みいでら。また一方の道はやなさきの浜辺へ出る。
新書太閤記:08 第八分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)