篠原しのはら)” の例文
いつはその布引より、一は都賀野村つがのむら上野より、他は篠原しのはらよりす。峰の形峻厳崎嶇しゅんげんきくたりとぞ。しかも海を去ること一里ばかりに過ぎざるよし。
一景話題 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
榛谷はんがえ四郎、熊谷次郎、猪股いのまた小平六を先陣としてその勢合わせて三万五千余騎、近江国の野路のじ篠原しのはらに陣を張った。
と唱うる薩南さつなんの健児たちは、神とも信頼している西郷隆盛さいごうたかもりを擁し、桐野きりの・別府・篠原しのはらなどの郷党の諸将に引率されて、総勢三千四百人を、二大砲隊十六小隊に組織し
日本名婦伝:谷干城夫人 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
それは九月のなかばから白面はくめん金毛きんもう九尾きゅうびの狐が那須の篠原しのはらにあらわれて、往来の旅びとを取りくらうは勿論、あたりの在家ざいけをおびやかして見あたり次第に人畜をほふり尽くすので
玉藻の前 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
それからは霎時しばらくとほざかつてたが、四十一ねんぐわつに、一人ひとり寺尾てらを子安こやす篠原しのはら大網おほあみたる駒岡こまをか諸遺跡しよゐせきぎて、末吉すゑよしかゝつてると、如何いかに、如何いかにである。
はぎが花ずり」(衣がへせんや、わが衣は野原篠原しのはら萩の花ずり)など歌っていた。
源氏物語:21 乙女 (新字新仮名) / 紫式部(著)
横田河原よこたがはらの一戰にもろくも敗れしに驚きて、今はとて平家最後の力を盡して北に打向ひし十五萬餘騎、一門の存亡をせし倶利加羅くりから篠原しのはらの二戰に、哀れや殘り少なに打ちなされ、背疵せきずかゝへて
滝口入道 (旧字旧仮名) / 高山樗牛(著)
「昨日おまへと篠原しのはらへ行つたらう。あの鰻がきつといけなかつたのだ。」
父の死 (新字旧仮名) / 久米正雄(著)
相手は枡平のおみのではなく、城代家老のめいに当る篠原しのはらしのぶであった。
饒舌りすぎる (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
武士もののふ矢並やなみつくろふ小手の上にあられたばしる那須の篠原しのはら
歌よみに与ふる書 (新字新仮名) / 正岡子規(著)
頼朝殿の流罪のとき、尼御前のおいいつけで、私は篠原しのはら宿しゅくまでお送りしました。その時、頼朝殿は私に、「この恩は決して忘れぬ」といわれたことがありました。
しまいには錦絵まで出来て、西郷桐野きりの篠原しのはららが雲の中に現われている図などが多かった。
綺堂むかし語り (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
もともと伊賀山脈に沿う近江路の野洲やす篠原しのはらあたりは野伏の巣といってよい。平常はうららかな湖畔の景をみせているが、時乱に敏感で、もう六波羅のやぶれもよく知っていたのである。
私本太平記:08 新田帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
矢上やがみしかり、高田たかたしかり、子母口しぼぐちしかり、駒岡こまをか子安こやす篠原しのはらたる箕輪みのわもつと不有望ふいうぼう
里遠み小野の篠原しのはら分けて来てわれもしかこそ声も惜しまね
源氏物語:40 夕霧二 (新字新仮名) / 紫式部(著)
続いて、加賀国篠原しのはらで勢揃いした平家の軍勢は、そこで二手に分れた。
篠原しのはら宿しゆくに着かせ給ふ
私本太平記:08 新田帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
近江国篠原しのはら宿しゅくまで来た時、今まで何もかも一緒であった宗盛親子は、別々に引き離された。「さては、いよいよ」と心には思ったが、今になっても宗盛の心は、まだ生への執着に悩み抜いていた。