かつ)” の例文
旧字:
真実ほんとに愛せられることもかつてなかった。愛しようと思う鶴さんの心の奥には、まだおかねの亡霊が潜みわだかまっているようであった。
あらくれ (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
吉本さんはかつて浅見先生の家塾に身を寄せていたこともあるという。捨吉に取ってのこの二先輩はそれほど深い縁故を有っていた。
桜の実の熟する時 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
すくなくとも時雄の孤独なる生活はこれによって破られた。昔の恋人——今の細君。かつては恋人には相違なかったが、今は時勢が移り変った。
蒲団 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
かつて若い頃にこの「日本の伝説」を読んで、半分でも三分の一でも記憶して居て下さる人であったら、興味は恐らくやや深められたことと思います。
日本の伝説 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
いや大助との交わりも親友だと信じているのは大助のほうで、秀之進はそういう意味を表示したことはかつてなかった。
新潮記 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
去年か今年か、なんでもかつてこんな楽しい記憶があったように思いながら、小坂部はそれが何時いつのことであったかを、はっきりと思い出すことが出来なかった。
小坂部姫 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
出征した兄はかつてその町の祭礼に、喧嘩をして人をきずつけたことがあったし、柔道も初段になっていたような事から、両親のみならず仲人役の先生も兄の怒を恐れたのである。
噂ばなし (新字新仮名) / 永井荷風(著)
此者の咄、将軍家かつて伝聞の通り既ニ発足。東海道通行軍旅候て、人数五万と申事のよし、一件に付岩下左兄(方平みちひら)早々蒸気船を以て御国許ニ帰られ、今月十日頃ニハ西吉兄(西郷吉之助)及
この常夜燈という三字、これを見てかれは胸をいた。この三字をかれはかつて深い懊悩おうのうを以て見たことは無いだろうか。
蒲団 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
寂しい暗い道を黙し勝ちに辿たどって来た。彼はかつて自分が基督キリスト教会で洗礼を受けたということまで、このお母さんに告げ知らせようともしなかった。
桜の実の熟する時 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
しかしこんな話が弘まらぬ筈はない、なにしろ浜松城下を通じて珍しいような美男であるし、浪人に似合わず身嗜みだしなみが良く、月代さかやきひげかつて伸びたところを見せない。
おもかげ抄 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
わたくしはかつてこの逸事を角田音吉つのだおときち氏が水野越前守と題した活版本について見たのである。
枇杷の花 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
恩人の家の方へ帰って来て見ると、捨吉はいまかつてその屋根の下で遭遇であったことも無いような動きの渦の中に立った。
桜の実の熟する時 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
芳子の家は新見町でも第三とは下らぬ豪家で、父も母も厳格なる基督教信者クリスチャン、母はことにすぐれた信者で、かつては同志社女学校に学んだこともあるという。
蒲団 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
かつて将軍家光から師範に懇望されたこともあるが、既に柳生、小野の二家がある以上は無用のことだと云って受けず、その気骨と特異の刀法を以て当代の一勢力を成していた。
内蔵允留守 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
冨山房も大きな本屋ですが私がかつて春陽堂から出した「下谷叢話」を是非出さしてくれと云うから改訂して出すと、後から郵便で出版契約書を送って来て印をおせと云うのです。
出版屋惣まくり (新字新仮名) / 永井荷風(著)
城代家老の満信みつのぶ文左衛門は温厚な徳人である。思慮綿密、喜怒を色に表わさず、かつて人をしかったことなく、声をあげて笑わず、沈着寛容、常に春風駘蕩たいとうといった人格であった。
思い違い物語 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
堂後の崖に在ったヒュースケンの墳墓が、もし無事に残っていたなら、わたくしがかつて見た一じゅの梅は、十余年の星霜を経ただけその幹を太くし、間もなく花をさかすであろう。
墓畔の梅 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
おせんがある医者のところへかたづいたという噂は、何か重荷でも卸したように、大塚さんの心を離れさせた。かつて彼の妻であった人も、今は最早全く他人のものだ。それを彼は実際に見て来たのだ。
刺繍 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
かつてわたくしは小説作法なるものを草して、小説をつくろうとする青年に示して、小説述作の基礎とすべきものは人物に対する観察と、全篇を構成すべき思想とである事を説いた。
細雪妄評 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
……笙子嬢はひどくはにかんで、俯向うつむいて、肩をすぼめるような姿勢で(これまでかつて見たことのない)嫋々なよなよとした身ごなしでそこへ坐り、しなしなと両手をつき、甘い、溶けるような声で云った。
半之助祝言 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
御落胤はせているのではないか、かつて出奔し去った五人の婿の如く、……すでにかなり痩せて、眼光はとろんとなり、唇は垂れあおざめて、常に虚脱的なべそをかいて、漠然と天床や壁を見たり
長屋天一坊 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
保守的な国許ではこんな縁組はかつてなかった。
いさましい話 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)