所謂いわゆ)” の例文
所謂いわゆる遊侠の世界(すなわち親分と称せられる人々から、破落戸ごろつきと称せられる人々)——あらゆる方面に知己があり友人があった。
名古屋の小酒井不木氏 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
実際磯吉は所謂いわゆる「解らん男」で、大庭の女連おんなれんは何となく薄気味うすきび悪く思っていた。だからお徳までが磯にははばかる風がある。
竹の木戸 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
はかなき点から見れば「永遠」とてもまたはかないではないか。何れが是なのか、何れも是なのか、また何れも非であるか、所謂いわゆる白雲の「未在」か。
これ所謂いわゆる政学・法学に需用あるものにして、子弟の相率いてこの二学に赴くは、けだしこの需用に応ぜんと欲するものなるのみ(謹聴々々、拍手、喝采)。
祝東京専門学校之開校 (新字新仮名) / 小野梓(著)
この綱は二本の繊維素で出来ている所謂いわゆる綱であり、この綱は捻じれたままの方向に捻じればますます強くなるだけだが、一たび逆に捻じれば直ちに断ち切れ
鵜飼 (新字新仮名) / 横光利一(著)
主翁はひどく碁が好きであったが、それは所謂いわゆ下手へた横好よこずきで、四もくも五目も置かなければならなかった。それでも三左衛門は湯治とうじの間の隙潰ひまつぶしにその主翁を対手あいてにしていた。
竈の中の顔 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
その眼と眉のあいだに一種形容の出来ぬ凄味をおびていて、所謂いわゆる殺気を含んでいると云うのであろう、その凄い怖い眼でジロリと睨まれた一瞬間の怖さ恐しさ、私は思わず気が遠くなって
画工と幽霊 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
鼻は所謂いわゆる獅子鼻であった。唇がムックリ膨れ上っていた。二つながら強い意志の力の、表現だと云ってもよさそうであった。
銀三十枚 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
所謂いわゆる富岡先生の暴力益々ますますつのり、二六時中富岡氏の顔出かおだしする時は全く無かったと言ってよろしい位、恐らく夢のうちにも富岡先生はあばれ廻っていただろうと思われる。
富岡先生 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
我邦わがくに学問の独立せざる久し。王仁わに儒学を伝えてより以来、今日に至るおよそ二千余年の間、未だ曾て所謂いわゆる独立の学問なるものありて我が子弟を教授せしを見ず(謹聴)。
祝東京専門学校之開校 (新字新仮名) / 小野梓(著)
しかし老師は断えず所謂いわゆる新知識を吸収するに努められた。基督キリスト教徒に対する反撃なども、今から見れば、見当違いの面もあるが、その頃はどこでも、それ以上には出られなかったのである。
洪川禅師のことども (新字新仮名) / 鈴木大拙(著)
筆を投ずれば風を生じ百言即座たちどころに発するというのが所謂いわゆる馬琴の作風であって、推敲反覆の京伝から見れば奇蹟と云わなければならなかった。
戯作者 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
ながめて居ると少年心こどもごころにもかなしいようなたのしいような、所謂いわゆ春愁しゅんしゅうでしょう、そんな心持こころもちになりました。
運命論者 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
併しこんな趣味がいつまでも続いて行くのがよくないのかも知れぬ、所謂いわゆる中古的骨董的趣味とでもいうべきもので、進化の歴史からは、こんな低徊主義は自ら亡びて行くのが本当かも知れぬ。
僧堂教育論 (新字新仮名) / 鈴木大拙(著)
所謂いわゆる諸学の蘊奥を極むるの便利を阻碍そがいするに至らん。
祝東京専門学校之開校 (新字新仮名) / 小野梓(著)
にもかかわらば尚今日、所謂いわゆる知識の高踏派、所謂る芸術の高踏派が、蠢動しているのは、何うしたものだろう。
小酒井不木氏スケッチ (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
サアこれからだ、所謂いわゆる額に汗するのはこれからだというんでただちに着手したねエ。
牛肉と馬鈴薯 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
親が子供に対すると同じ情熱の気分が見える。宗演師は一個の禅僧として、意志強く、又世を浮雲の如く見て行く、所謂いわゆるお悟りの人のように思われもしたであろうが、その実、情の人であった。
釈宗演師を語る (新字新仮名) / 鈴木大拙(著)
ところでちっとも不思議でない事には、所謂いわゆる実験室的作物の味が、多く加味されていればいる程、氏の作はいつも面白く、そのあじわいの薄い時は、面白くない作になって居ります。
探偵文壇鳥瞰 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
意外なのは暫時しばらあわぬ中に全然すっかり元気が衰えたことである、元気が衰えたと云うよりか殆ど我が折れて了って貴所の所謂いわゆる富岡氏、極く世間並の物の能く通暁わかった老人にって了ったことである
富岡先生 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
恰度ちょうど新派の芝居なるものが、本当の人間をウツして来ずに、甘く低級に理想化された、侠芸者だの悪弁護士だの、屹度出世する苦学生だの、天女のような令嬢だのを、所謂いわゆる善玉悪玉式に
大衆物寸観 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
彼の講義ぶりあざや所謂いわゆる水際立っていた。二月あまり経った頃には塾生の数も八十人を越し、咿唔いごの声道に響き行人の足を止める程であった。佐藤はすこぶる得意であった。従って講義に油が乗る。