配流はいる)” の例文
福島正則ふくしままさのりが川中島へ配流はいるされた時の一族だということで、今日は塩市をあての買物を兼ねて十余人の百姓をつれて——この百姓たち
大菩薩峠:24 流転の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
二人だけみやこへかえして、あなただけをこの島に残すというはずがないではないか。わしらは同じ罪に座して配流はいるされたのだから。
俊寛 (新字新仮名) / 倉田百三(著)
麻続王が配流はいるされたという記録は、書紀には因幡いなばとあり、常陸風土記には行方郡板来なめかたのこおりいたく村としてあり、この歌によれば伊勢だから、配流地はまちまちである。
万葉秀歌 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
と、配流はいるの決定をみていたのであり、それの御裁可を仰ぐ手続きが、もう極密裡ごくみつりに、後伏見院、花園院の二上皇のお手もとまで差し出されていたのだった。
私本太平記:04 帝獄帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
大鏡おおかがみ』では北野の天神が配流はいるのみちすがら此処ここで仏門に帰依きえせられて「きみがすむやどのこずえをゆく/\と」
蘆刈 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
と吟じてりくせられぬ。母族林彦清りんげんせい、妻族鄭原吉ていげんきつ九族既に戮せられて、門生等まで、方氏ほうしの族として罪なわれ、坐死ざしする者およそ八百七十三人、遠謫えんたく配流はいるさるゝもの数う可からず。
運命 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
○延喜五年八月十九日同所安楽寺にはじめて 菅神の神殿を建らる。味酒あぢさけ安行やすゆきといふ人是をうけたまはる。同九年神殿成る。是よりさき四人の御子配流はいるをゆるされ玉ひ、おの/\もとの位にかへされ玉ふ。
二月か——とちまたでもうわさしていた上人の配流はいるの日は、その二月には沙汰さたが下らず、三月に入った。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
何事の罪を犯したか知らぬが、延喜十六年八月十二日に配流はいるされたとある。同時に罪を得たものは、同国人で同姓の兼有かねあり高郷たかさと興貞おきさだ等十八人とあるから、何か可なりの事件にもとづいたに相違無い。
平将門 (新字旧仮名) / 幸田露伴(著)
○延喜五年八月十九日同所安楽寺にはじめて 菅神の神殿を建らる。味酒あぢさけ安行やすゆきといふ人是をうけたまはる。同九年神殿成る。是よりさき四人の御子配流はいるをゆるされ玉ひ、おの/\もとの位にかへされ玉ふ。
以来芸州の福島正則まさのり、肥後の加藤忠広を始め、駿河大納言するがだいなごん家にいたるまで、仮借かしゃくなく剔抉ていけつし、藩地を召上げ、正則も配流はいる、忠広も流罪るざい、大納言家も、今、御幽閉させて
柳生月影抄 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
十能に炭をったのを持ちながら、率八が納屋の戸口へこう言うと、配流はいるの人でも居そうな小さな切窓に、今ひじをついて川洲かわすの方へ横に立って千鳥を眺めていた一人の男が
江戸三国志 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
太政官下知だいじょうかんげじに依って問罪の使節として下向して来た将軍の手につながれ、同年八月十二日甲午きのえうま、同族の兼有かねあり高郷たかさと興貞おきさだ等——すべて十八人、重罪により配流はいるといい渡され、伊豆の南端へ
平の将門 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
いよいよ道誉が配流はいるされて行く日を見れば、その行装など、日ごろの物見遊山とも変るところはなく、従者三百騎は、例の伊達だてすがたに猿皮のうつぼをかけたり、鶯籠うぐいすかごやら酒肴しゅこう重箱じゅうばこをたずさえたりして
私本太平記:13 黒白帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
配流はいるから帰った後も、以前にまさる華奢かしゃ風流を振舞っているが
私本太平記:13 黒白帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「先帝は隠岐へ、ご配流はいるときまった」
私本太平記:05 世の辻の帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
伊豆の国へ配流はいるの事。
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
配流はいるとある」
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)