放埒はうらつ)” の例文
そして、これらの憂欝を流し込むところは彼には結局女色より他になく、彼の放埒はうらつな日々の行為はやはり続けられてゐるのである。
日本三文オペラ (新字旧仮名) / 武田麟太郎(著)
それは門太郎が身持放埒はうらつなので、お縫さんの母親が不承知だつたと世間では申して居りますが、兎も角も、あの門太郎さんが家出を
昨日に限つて、原町の家に宿とまらずにゐた自分が悔いられた。母にお金を貰つて、好い気になつて、呑気のんき放埒はうらつにすごした昨夜の自分が悔いられた。
イボタの虫 (新字旧仮名) / 中戸川吉二(著)
かく繁りに茂つた枝と葉とを持つた雑多な草木は、庭全体として言へば、丁度、狂人の鉛色な額に垂れかかつた放埒はうらつな髪の毛を見るやうに陰欝であつた。
また先代の放埒はうらつのために廃寺同様になつてゐる寺にさういふことがあらうとは思はないので、好い加減に聞いてゐたが、その話が度々たび/\耳に入るので、ある時
ある僧の奇蹟 (新字旧仮名) / 田山花袋(著)
即於南光坊調美之体、いとにが/\しくぞみえにける。貧僧心ぼそげにたくはへをきし味噌の中へ、魚鳥のはらわたいれけがし給ふ。其外放埒はうらつの有様、ものにこえてをこがまし。
聞書抄:第二盲目物語 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
放埒はうらつであつた前日の非をあがなへとばかり極端に自己を呵責かしやくして、身に出来るだけの禁欲を続けて来たことは誤りであつた。肉体に加へた罰から精神までも哀れに萎縮してしまつた。
註釈与謝野寛全集 (新字旧仮名) / 与謝野晶子(著)
物疑ものうたがひといふてはつゆほどもおちなさらぬこゝろのうつくしいひとを、うもうも舌三寸したさんずんだましつけてこゝろのまゝの不義ふぎ放埒はうらつ、これがまあひと女房にようばう所業しわざであらうか、なんといふ惡者わるものの、ひとでなしの
うらむらさき (旧字旧仮名) / 樋口一葉(著)
かくばかり我が放埒はうらつのやるせなき心きかんと言ふはが子ぞ
短歌 (旧字旧仮名) / 萩原朔太郎(著)
放埒はうらつのかなしみは
東京景物詩及其他 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
柳橋で殺された藝妓のやつこは、私の爲には親身の妹さ。私は放埒はうらつな上にやくざな亭主を持つて、夜盜の仲間にまで身を落したから、身内の迷惑を
昨夜の放埒はうらつな記憶に触れずにすむためには自分の方から、何か先に口を切らねばいけないと思つて、しばらくの間云ふき言葉を頭の中で整理してゐた。
イボタの虫 (新字旧仮名) / 中戸川吉二(著)
放埒はうらつのかなしみは
東京景物詩及其他 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
「御總領の彌三郎とかを、身持放埒はうらつで勘當なすつたといふことですが、あれが、彌三郎さんぢやありませんか」
福松は放埒はうらつだから、うつかり大金の隱し場所を教へるわけに行かないが、俺も取る歳だ。此の頃の樣に身體が弱つちや、何時どんな事があるかもわからない。
恐らくそのやかましい門限も、放埒はうらつな若殿金之進の夜遊びを制裁するための定めだつたのかも知れません。
これは一とくせも二た癖もある人間、若い時は隨分放埒はうらつな暮しもしたやうですが、今ではすつかり堅くなつて、兄の佐兵衞を助けて、家業大事にはげんで居ります。
六兵衞は身持放埒はうらつで、若い時分は近江屋へ出入りも出來なかつた爲に、せめて伜だけは眞人間にしたいといふので、名乘りをしない約束で丁稚でつちに頼みこんだんだ。
「それはよく知つて居りました。あんまり放埒はうらつがひどいから、盆を越せば實家へ歸つて貰ふ筈で」
茶汲み女を片つぱしから口説き落して、際限も無い放埒はうらつだから、女房のお留は燒餅やきもちで氣が變になつたのだよ。最初、お北の髮を切つたのは、間違ひもなく主人の岩吉だ。
夫兵庫の放埒はうらつを止める力もなく、蔭では泣いて居ると言つた型の、消極的な人柄ですが、こんなのが思ひの外嫉妬しつとが強いのではあるまいか——と平次は考へて居りました。
百足屋市之助、——お前には兄、お内儀さんには良夫をつとだが、近頃になつて放埒はうらつが益々募つた。
一色友衞は藤左衞門の昔の朋輩ほうばいの子ですが、放埒はうらつで、弱氣で、笛の腕前は確かでも、娘をやる氣にならず、鳩谷小八郎は、武家の出で腕もよく、男振りもなか/\立派ですが
放埒はうらつでわがままで、その上亂暴なことがあつたために、二年越し木更津きさらづの親類に預けてありましたが、近ごろ江戸につれ歸り町内の人達にも隱し、そつと家の中に圍ひを作らせて
放埒はうらつに身を持崩した末五十過ぎてから兄の家に轉げ込み、障子も張れば便所の掃除さうぢもすると言つた、恐ろしく氣の輕い男で、鼻唄交りにその日/\を暮してゐる札付の放浪者ボヘミアンでした。
番頭の利八郎は若い時放埒はうらつで、隣町の師匠に隱し子を拵へ、大分金を注ぎ込みましたが、嚴格な主人を憚つてツイそれを打明け兼ねてゐるうち、師匠は死んで娘のお道は孤兒こじになり
「親同士の許婚で、本人もその氣でゐるやうですが、伜の菊次郎は、お夏の氣性を嫌つて、祝言をする氣にもならず、次第に放埒はうらつに身を持ち崩して、飛んだことをいたしてしまひました」
默禮して死體の側から退いたお八尾は、四十二三の淋しい女で、愼しみ深さうなのも、化粧に縁のない顏も、放埒はうらつな夫の愛を失つて、忍從と諦らめで靜かに生きてゆく典型的な内儀型でした。
これは當然山名屋をぐ可き筈でしたが、放埒はうらつで眼を潰した上、父親の生前勘當されてゐたことを言ひ立てゝ、叔父の五左衞門に追ひ出され、叔父の五左衞門自身が山名屋の後に坐り込んで
主人の從弟いとこの子ださうで、放埒はうらつで勘當になり、親が亡くなつた時、殘つた身上と一緒に、大叔父に當る主人に預けられ、暫らく辛棒の具合を見るといふことで、下男同樣に使はれて居りますが
をひの吉太郎が放埒はうらつのために勘當になると、私の昔の乳母だつた、お安といふ女を葛西かさいから搜し出して來て、いろ/\訊ねた末その頃私をさらつた者の人相から、小松屋を怨む筋の者を手繰たぐつて
母親が死んだ後、父親の午吉は年にも耻ぢぬ放埒はうらつで、家へ寄り付いてもくれません。思案に餘つて、昔からの知合で、私を里子に出す時世話をしてくれたといふ、此お屋敷の婆や——おしのさんを
「三河町の奈良屋三郎兵衞つていふと、親分も知つて居る通り、公儀の御用を勤める大層な材木屋だが——金に不自由がなくなると、人間はどうしても放埒はうらつになるんだね。お蔭樣でこちとらは——」
もつとも小松屋はその後をひの吉太郎といふのを養つて、跡取といふことにして居りましたが、此吉太郎が道樂を覺え、散々放埒はうらつの限りを盡した揚句、勘當されて相州厚木あつぎへやられて居るとも申しました。
生涯を物慾にゆだね切つて、隨分無理な金を溜めた爲に散々諸人のうらみを買つたらしく、先年女房に死に別れ、放埒はうらつな伜を勘當して、娘のお喜多一人を頼りに暮すやうになつてからは滅切めつきり氣が弱くなり
さすがは錢形の親分、——これは申上げたくないことですが、二十一になる彌三郎と申すせがれがあります。總領の男の子には相違ないが、耻かしながら身持放埒はうらつで、今は親類のところに預けてあります。
「奉公人ぢやねえよ親分、それはお前、お梅坊と言つて、今の旦那にはめひに當る方だ。この娘の兄さんは身持放埒はうらつで行方知れずさ。可哀さうにお梅坊は、奉公人よりヒドい目に逢つて居なさるんだ。罰の當つた話だよ」