大雅たいが)” の例文
大雅たいがは余程呑気のんきな人で、世情に疎かった事は、其室玉瀾ぎょくらんを迎えた時に夫婦の交りを知らなかったと云うのでほぼ其人物が察せられる。」
侏儒の言葉 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
例えば、ここに大雅たいがの書があります。これを習おうと思います場合に、どこからどこまでこの通りに書こうとしないでよろしい。
が、師伝よりは覚猷かくゆう蕪村ぶそん大雅たいが巣兆そうちよう等の豪放洒落な画風を学んで得る処が多かったのは一見直ちに認められる。
大雅たいが応挙おうきょ月渓げっけいなどといふ画人が、急に世にときめき出したのも、しゃくに触つた。
上田秋成の晩年 (新字旧仮名) / 岡本かの子(著)
三渓の蒐集品は文人画ばかりでなく、古い仏画や絵巻物や宋画や琳派りんぱの作品など、尤物ゆうぶつぞろいであったが、文人画にも大雅たいが蕪村ぶそん竹田ちくでん玉堂ぎょくどう木米もくべいなどのすぐれたものがたくさんあった。
漱石の人物 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
蕪村は自ら画を造りしこと多く、南宗なんそうの画家として大雅たいがと並称せらる。
俳人蕪村 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
大乗だいじょうの、大雅たいがなものだ。
フレップ・トリップ (新字新仮名) / 北原白秋(著)
ほか諸大雅たいが
宮本武蔵:03 水の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
竹田ちくでんき人なり。ロオランなどの評価を学べば、善き画描ゑかき以上の人なり。世にあらば知りたき画描き、大雅たいがを除けばこの人だと思ふ。
雑筆 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
しからば大雅たいがか、蕪村ぶそんか、玉堂ぎょくどうか、まだまだ。では光琳か、宗達か。なかなか。では、元信もとのぶではどうだ、又兵衛またべえではどうだ、まだだ。光悦こうえつか、三阿弥あみか、雪舟せっしゅうか、もっともっと。
河豚のこと (新字新仮名) / 北大路魯山人(著)
さう云はれて見ると、成程その二人の男は、はうきをかついで、巻物を持つて、大雅たいがの画からでも脱け出したやうに、のつそりかんと歩いてゐた。
寒山拾得 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
しからば大雅たいが蕪村ぶそん玉堂ぎょくどうか。まだまだ。では光琳こうりん宗達そうたつか。なかなか。では元信もとのぶではどうだ、又兵衛またべえではどうだ。まだまだ。光悦こうえつ三阿弥さんあみか、それとも雪舟せっしゅうか。もっともっと。因陀羅いんだら梁楷りょうかいか。
河豚は毒魚か (新字新仮名) / 北大路魯山人(著)
僕は日頃大雅たいがを欲しいと思つてゐる。しかしそれは大雅でさへあれば、金を惜まないと云ふのではない。まあせいぜい五十円位の大雅を一ぷく得たいのである。
澄江堂雑記 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
かう云ふ先例もあつて見ると、五十円の大雅たいがを得んとするのは、かならずしも不可能事ではないかも知れぬ。
澄江堂雑記 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
大雅たいがは偉い画描ゑかきである。昔、高久靄崖たかひさあいがい一文いちもん無しの窮境にあつても、一幅の大雅だけは手離さなかつた。ああ云ふ英霊漢えいれいかんの筆に成つたは、何百円といへども高い事はない。
澄江堂雑記 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
東海の画人多しとは云へ、九霞山樵きうかさんせうの如き大器又あるべしとも思はれず。されどその大雅たいがすら、年三十に及びし時、意の如くの進まざるを憂ひて、教を祇南海ぎなんかいに請ひし事あり。
八大はちだいの魚や新羅しんらの鳥さへ、大雅たいがの巖下にあそんだり、蕪村ぶそんの樹上にんだりするには、余りにたくましい気がするではないか? 支那の画は実に思ひのほか、日本の画には似てゐないらしい。
支那の画 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
やむを得ずんば大学教授の適任者と做すも忍ばざるにあらず。唯幸ひに予を以て所謂いはゆる文人と做すこと勿れ。十便十宜帖じふべんじふぎでふあるが故に、大雅たいが蕪村ぶそんとを並称へいしやうするは所謂文人の為す所なり。
続野人生計事 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)