節会せちえ)” の例文
左馬寮さまりょう右馬寮うまりょうの馬が前庭に並べられ、左近衛さこんえ右近衛うこんえの武官がそれに添って列立した形は五月の節会せちえの作法によく似ていた。
源氏物語:33 藤のうら葉 (新字新仮名) / 紫式部(著)
すなわち過越祭と除酵祭とは同じ節会せちえであって、マルコ一四の一二に「除酵祭の初めの日、すなわち過越の羔羊を屠るべき日」
しかしながら恒例の節会せちえ等の停廃をもって、直ちに宮廷の御経済向き不如意のためと、一概に断定するわけにはゆかぬ。
には、文武天皇の大宝元年(西暦七〇一年)が始めとみえる。禁廷きんていで、左右の衛府えふの人びとだけでやったものらしい。それも五月の節会せちえだけに。
以前はその時節会せちえを設け種々の競戯し、近隣のみかは、英国中より勇士来集して土地の勇士と芸競べせしも、何となくやんでいまだ六十年にならぬ。
それが、事のはじまりで、天承元年の十一月二十三日、豊明とよあかり節会せちえの繁雑さにまぎれて、やっつけてしまおうという計画がいつかできあがってしまった。
同じく正月七日の侍宴(白馬の節会せちえ)の為めに、大伴家持が兼ねて作った歌だと左注にある。「水鳥の鴨の羽の色の」は「青」と云わんための序である。
万葉秀歌 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
『延喜式』の宮内式くないしきには、もろもろ節会せちえの時、国栖十二人笛工五人、合せて十七人を定としたとあります。
山の人生 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
昔、朝廷ちょうていでは毎年七月に相撲すもう節会せちえもよおされた。日本全国から、代表的な力士をされた。昔の角力すもうは、打つる投げるといったように、ほとんど格闘かくとうに近い乱暴なものであった。
大力物語 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
恒例臨時の節会せちえを除けば、外は時々の除目じもくまたは御料所の年貢のうながし、神社仏閣の昇格の裁許くらいのものである。
節会せちえの夜の密計を、忠盛へ、前にもらした者は、権大夫時信であったというぞ。まずもって時信を追え』
主上はおいで遊ばすが節会せちえも行なわれず、腹巻の奉納もなく、吉野の国栖人くずびとの歌舞奉仕もなかったので
愛の神カマ、五種の芳花もて飾った矢を放って人を愛染す。その一なる瞻蔔迦ちゃむばかの花香く人心をとろかす。故に節会せちえをその花下に開き、青年男女をして誦歌相いざなわしむ。
白馬あおうま節会せちえであったから、これだけはこの宮へも引かれて来て、女房たちが見物したのである。
源氏物語:10 榊 (新字新仮名) / 紫式部(著)
節と節会せちえ
年中行事覚書 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
ちょうにおわせば、大晦日おおつごもりには追儺ついなの式、元日には清涼東階せいりょうとうかいの四方拝のおん儀、節会せちえ大饗たいきょうなど、さまざまな行事やら百官のとなえる万歳にことほがれ給う大君であり、あなた方であるものを
私本太平記:04 帝獄帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
元三日が過ぎてまた今年は男踏歌おとことうかであちらこちらと若い公達きんだちが歌舞をしてまわる騒ぎの中でも、寂しい常陸の宮を思いやっていた源氏は、七日の白馬あおうま節会せちえが済んでから、お常御殿を下がって
源氏物語:06 末摘花 (新字新仮名) / 紫式部(著)
来るべき豊明とよのあかり節会せちえこそ、よいしおなれ、忠盛めを、やみ討ちにして、果てこそ見む
宮中の節会せちえの日なんぞ、急いで家を出る時は歌も何もあったものではありません。そんな時に菖蒲しょうぶに寄せた歌が贈られる、九月の菊の宴に作詩のことを思って一所懸命になっている時に、菊の歌。
源氏物語:02 帚木 (新字新仮名) / 紫式部(著)
正月の節会せちえ