いつくし)” の例文
乃至ないしは最初の印象を、思い出として心のなかでいつくしんでいるのがほんとうかもしれぬ。改めて観察しようというのが不心得なのであろう。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
何故なら、濡れたがらくたの堆積の間に、春は植物をいつくしんでゐた——草や雜草などが、石や落ちたたるきの間のあちこちに生えてゐた。
されどもせきへず流るるは恩愛の涙なり。彼をはばかりし父と彼をおそれし母とは、決して共に子として彼をいつくしむを忘れざりけり。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
父は早く死んだけれども、母は長く僕を愛しいつくしんで呉れた。にも係らず、僕は絶えず他に父母を求めているのだ。この事については、最早長くは書くまい。
さういふ僕たちを恰もいつくしむかのやうに、マントル・ピイスの上から、この夏釋迢空さんが僕たちのために書いて下すつた朱の短册が、森嚴に見下ろしてゐる。
山日記その二 (旧字旧仮名) / 堀辰雄(著)
いつくしみ深かりし姉上、われはわが小親と別るるこの悲しさのそれをもて、救うことをなし得ざる姉上、姉上が楓のために陥りたまいしと聞く、その境遇に報い参らす。
照葉狂言 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
日常、姜維の才を磨いてやることは、珠をでる者が珠の光をいつくしむようであった。
三国志:11 五丈原の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
彼は道ばたの無花果いちじゆくを呪つた。しかもそれは無花果の彼の予期を裏切つて一つも実をつけてゐない為だつた。あらゆるものをいつくしんだ彼もここでは半ばヒステリツクに彼の破壊力をふるつてゐる。
西方の人 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
寶澤はうたくと改めける感應院は元より妻も子もなく獨身どくしんの事なる故に寶澤を實子じつしの如くいつくしみてそだてけるが此寶澤はうまれながらにして才智さいち人にすぐ發明はつめいの性質なれば讀經どくきやういふおよばず其他何くれとをしゆるに一を
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
相場師夫婦は眞の親も及ばない程千登世をいつくしんで、彼女の望むまゝに土地の女學校を卒業さした上更に臨時教員養成所にまで進學さしてくれたのだが、業なかばでその家が經濟的に全く崩壞してしまひ
業苦 (旧字旧仮名) / 嘉村礒多(著)
彼の友であり彼をいつくしみ、普通のとおり彼よりいっそう炯眼けいがんである一人の作家が、彼のつつましい揺籃ようらんをのぞきこんで、なんじは十二、三人の昵懇じっこん者の範囲外にふみ出すことはなかろうと予言したときから
……実は、あの老母が、幼少からいつくしんでいた末娘が、近頃やまいのため、母のことのみ申し、うわ言にも、母よ母よと恋い、起きても、会いたや、一ト目会いたやと、泣きしとうてやまぬのでおざる
新書太閤記:10 第十分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)