徽宗きそう)” の例文
蹴毬けまりの妙技から、ついに、徽宗きそう帝に知られ、うなぎのぼりの出世をとげた法外な成上がり者なることを今でも覚えている者が少なくなかった。
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
それはそう徽宗きそう皇帝の御筆ぎょひつというたかの一軸である。酒宴が果てて客がみな帰り去った後、夜がけてからかの狐が忍んで来た。
その他哥舒翰かじょかんがその馬せき将軍の背に朝章ちょうしょうを加え、宋徽宗きそうがその馬に竜驤りゅうじょう将軍を賜うたなど支那にすこぶる例多いが
詳しく言えばその中にも南定なんてい北定ほくていとあって、南定というのは宋がきんわれて南渡なんとしてからのもので、勿論その前の北宋ほくそうの時、美術天子の徽宗きそう皇帝の政和宣和せいわせんな
骨董 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
「その盜まれた名幅は、巨勢金岡こせかなをかの『救世觀音』でせうか、それとも徽宗きそう皇帝の『孔雀』でせうか」
徽宗きそう皇帝、梁楷りやうかい、馬遠、牧渓ぼくけい、それから、この夏珪、みんな北宗画の巨頭なのだ。どんな小幅だつて五千円もする。この幅などは、お父様が、今迄見た中での傑作だ。
真珠夫人 (新字旧仮名) / 菊池寛(著)
徽宗きそう皇帝(一一〇一—一一二四)はあまりに偉い芸術家であって行ないよろしきにかなった王とはいえないが、茶の珍種を得んためにその財宝を惜しげもなく費やした。
茶の本:04 茶の本 (新字新仮名) / 岡倉天心岡倉覚三(著)
もろこし徽宗きそう皇帝さえ苦心して描いた牡丹の図を、名もない田舎の百姓によって季節外れと嘲られたため描き改めたと申すではないか。役目をもって申し付ける。持ち返って手入れ致せ!」
北斎と幽霊 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
ある商人の書画をこのみてもてあそぶものありしが、その購入する所を聞くに、金岡かなおかが観音の像一てい代価千両なり。徽宗きそうの桃に鳩の絵わずかに長さ五、六寸に広さ六、七寸なる小幅が同じく千両なり。
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
巷間こうかん、その当時の隠れない取り沙汰では、時の風流天子徽宗きそうは、禁中からくるわまで地下道をってしげしげ通っていたものと言い伝えられている。
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
徽宗きそう皇帝、梁楷りょうかい馬遠ばえん牧渓もっけい、それから、この夏珪、みんな北宗画の巨頭なのだ、どんな小幅だって五千円もする。この幅などは、お父様が、今迄いままで見た中での傑作だ。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
美術天子の宋の徽宗きそう皇帝が、張戩ちやうせんといふ畫人をして舟に乘じて往いて山水さんすゐしようを觀て八景の圖を作るやうに命ぜられたといふことも、傳へられてゐる談であるから、八景のはじまりは宋であつて
華厳滝 (旧字旧仮名) / 幸田露伴(著)
孔雀くじやく (徽宗きそう皇帝)
これなん、かつての毬使まりつか高毬こうきゅう、いまでは殿帥府でんすいふ大尉だいいにして徽宗きそうの朝廷に飛ぶ鳥落す勢いの高俅こうきゅうであった。
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
彼は、徽宗きそう皇帝の全盛時代からの御林軍の一将校であったから、そのって来た禁門の守りは、天地がくつがえろうとかわるものでないようにおもいこんでいたものだった。
人間山水図巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
こういう柔弱にゅうじゃくな文化人共が、徽宗きそう皇帝をとり巻いて、皇帝をしてまるで一箇の画家か美術の保護者みたいなものに仕立て上げてしまったからこそ、ついに北宋を亡ぼしたのである
人間山水図巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
季唐はもとより徽宗きそう以来の大家たいかではあり、晩年にも長巻や大作を描いて、いよいよ北宋画のそうたる巨腕を示したが、その門から出た蕭照も、年もうて名声を博し、その作品は、李唐以上に
人間山水図巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)