同苗どうみょう)” の例文
「相談するがよい。が世話しようという聟どのは、ふしぎや寧子が生家とも同苗どうみょうの木下藤吉郎。そちもよう見知ってる男じゃが」
新書太閤記:02 第二分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
そこで大石内蔵助良雄から同苗どうみょう主税良金、原総右衛門元辰、吉田忠左衛門兼亮かねすけというように、禄高ろくだかによって、順々に血判をすることになった。
四十八人目 (新字新仮名) / 森田草平(著)
不図ふと出会うと中国もので、矢張と松平越後様のい役柄を勤めました松蔭大之進まつかげだいのしんの忰、同苗どうみょう大藏だいぞうというもので、浪々中互いに知って居りますから
菊模様皿山奇談 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
石見守いわみのかみの剣道指南南条右近の三男で同苗どうみょう右三郎うさぶろうというのであったが、鏡家へ入ると家憲に従い葉之助と名を改めた。
八ヶ嶽の魔神 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
第三番目に出た森脇右門作、これは新参お召抱えになった同苗どうみょう三右衛門の子で、弓組では筆頭を射ている男だった。
備前名弓伝 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
高山屈指の穀屋の後家さんの男妾おとこめかけを業としていた浅吉という色男の弟だと言われた同苗どうみょう政吉——が、この怪物のために時に取ってのお先供を仰せつかりました。
大菩薩峠:32 弁信の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
せがれ同苗どうみょう長兵衛ちょうべえというものがあって、これが先代からの遺伝と申すか、大層美事みごとひげをもっておった人物であったから、世間から「髯の長兵衛」と綽名あだなされていたという。
これを見ると氏郷にしたがって来た蒲生源左衛門、蒲生忠左衛門、蒲生四郎兵衛、町野左近将監、新参ではあるが名うての荒武者佐久間玄蕃が弟と聞えた佐久間久右衛門、同苗どうみょう舎弟しゃてい源六
蒲生氏郷 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
二陣に和田五郎正隆まさたか同苗どうみょう助康、八木ノ入道法達ほうたつ、神宮寺正師まさもろなどの——いくさの駈引きにも騎馬戦にも屈指くっしな者をすえていた。
私本太平記:12 湊川帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
拙者の家は、播州ばんしゅう赤松の支流、平田将監しょうげんの末で、美作みまさか宮本村に住し、宮本無二斎とよぶものの一子、同苗どうみょう武蔵であります。
宮本武蔵:06 空の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
高松山の一きゅうには、徳川方の旌旗せいきが満ちている。大久保七郎右衛門、同苗どうみょう治左衛門の兄弟も、その中に陣していた。
新書太閤記:05 第五分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
水茶屋渡世とせいの通例ですが、その頃、大岡亀次郎と、同苗どうみょう市十郎と申す従兄いとこ同士の遊び客が折々見えるうち、お袖は、その市十郎と、恋仲におち、いつしか
大岡越前 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
義元のまわりには、幕将庵原将監いはらしょうげんがいた。そのおい同苗どうみょう庄次郎がいた。侍大将落合長門おちあいながとがいた。近習頭きんじゅうがしら沢田長門守、斎藤掃部助さいとうかもんのすけ、関口越中守などもいた。その他
新書太閤記:02 第二分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
越中ざかいの勝山城かつやまじょうには、丹羽権兵衛を入れて、七尾城に対抗せしめ、阿尾城あおじょうには、菊地右衛門入道きくちうえもんにゅうどうとその子、伊豆守いずのかみを。——森山城もりやまじょうには、神保氏張じんぼうじはる同苗どうみょうせいろうを。
新書太閤記:11 第十一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
信長の一族中だけでも、従兄いとこ信成のぶなり、伊賀守仙千代せんちよ、又八郎信時など、いずれも戦死し、織田大隅守おおすみのかみ同苗どうみょう半左衛門なども深傷ふかでを負ってしりぞいたが、後まもなく死んだ。
新書太閤記:05 第五分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
津軽の安藤季長や同苗どうみょう五郎らが、一族同士の合戦におよぶまでには、しばしば相互から、鎌倉政所まんどころへ直々の訴えに出ていたのだが、内管領の高資は多年にわたって、両者のどっち側からも
私本太平記:01 あしかが帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
官兵衛が顔を解いて、うなずき笑いをして見た時である。——夜となっても、まだ登城を伝えて来た。播磨飾西しきさい置塩おきしおの城主赤松次郎則房のりふさが、同苗どうみょう弥三郎広英ひろひでを伴って——という取次であった。
新書太閤記:09 第九分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
『江戸常詰じょうづめの家中村松喜兵衛きへえ同苗どうみょう三太夫』
新編忠臣蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
同苗どうみょう直義ただよしには