六波羅ろくはら)” の例文
六波羅ろくはら風と言えば、猫も杓子しゃくしも、右へならえで、烏帽子えぼしの折り方やら、着つけの仕方まで、皆が平家一族を真似するのである。
あらゆる暴虐ぼうぎゃくいた身を宮殿をしのぐような六波羅ろくはらの邸宅の黄金こがねの床に横たえて、美姫びきを集めて宴楽えんらくにふけっております。
俊寛 (新字新仮名) / 倉田百三(著)
「何のために、立ち聞きしたっ。六波羅ろくはらのまわし者とは分っているが、誰のさしがねで、ここへは忍びこんだか」
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
その図案を参酌さんしゃくして製作に掛かった楠公像の形は一体どういう形であるかといいますと、元弘げんこう三年四月、足利尊氏あしかがたかうじ赤松あかまつの兵を合せて大いに六波羅ろくはらを破ったので
現にあの琉球人なぞは、二人とも毒蛇どくじゃまれた揚句あげく、気が狂ったのかと思うたくらいじゃ。その内に六波羅ろくはらから使に立った、丹左衛門尉基安たんのさえもんのじょうもとやすは、少将に赦免しゃめんの教書を渡した。
俊寛 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
さんざん難儀なんぎをして、清盛きよもりのいる京都きょうと六波羅ろくはらのやしきにくと、常磐ときわ
牛若と弁慶 (新字新仮名) / 楠山正雄(著)
この間に彼は六波羅ろくはらに招かれて武士の前に法を説いた。六波羅の評定衆ひょうじょうしゅう波多野義重がうままに、四十四の歳の夏越前吉峰きっぽう古精舎こしょうじゃに移り、翌年の七月に大仏寺(すなわち永平寺)を開いた。
日本精神史研究 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
この推定が当れりとするならば、京丸などはこの山村の中で最も気の利いた世間師せけんしの住んでいた部落である。冬の囲炉裏いろりの側の話のごときも、祇園ぎおん六波羅ろくはら嵯峨さが・北野で持ち切ったかも知れぬ。
地名の研究 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
「あの、六波羅ろくはらの祇王様なんでしょう」
大菩薩峠:36 新月の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
昼のうちこの辺りまで、六波羅ろくはらの武士が来て、宿場のおさや、沙汰人どもをあつめ、訓示して去ったことばには
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
楠正成たちの忠誠が守るところとなるかと思えば、京六波羅ろくはらの賊軍が、大挙して攻めせる目標となったり
宮本武蔵:08 円明の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
(——六波羅ろくはら殿のお布令ふれぞ。源氏の与党と見たら、捕えて突き出せ。義朝よしともの一族と見かけたら道を通すな)
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
六波羅ろくはらの清盛や小松殿の一門とも、肩をならべていた左馬頭義朝のまぎれない遺児わすれがたみなのである。
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
六波羅ろくはら探題たんだいから、なんぞ、お許様もとさまへ、やかましい詮議せんぎだては、ありませんでしたか」
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「よう、成人したものだ。……常磐ときわのふところに抱かれて、ほかの幼い和子わこたちと、六波羅ろくはら殿に捕われたといううわさに、京の人々が涙をしぼった保元ほうげんの昔は、つい昨日きのうのようだが」
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
この篠村しぬむら八幡へは、かつて元弘の頃、足利高氏あしかがたかうじも、願文をめたことがある。高氏はこの駅路うまやじに来て旗を立て、勅命にこたえ奉るなりと声明して、一挙京都に入り、六波羅ろくはらおとした。
新書太閤記:07 第七分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
部将は本庄鬼六ほんじょうきろくといって衛門尉えもんのじょう六波羅ろくはら検断所の一将だった。威張るはずである。
私本太平記:03 みなかみ帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
薄命の一少年源頼朝が六波羅ろくはらに捕われたとき、そのいじらしさを見、清盛を説いて、少年頼朝のために命ごいをした尼は——若き日、人もあろうにと人のいう、スガ目の忠盛と恋をした
六波羅ろくはらからは、さっそく両探題の名で、着陣のよろこびを言って来た。
私本太平記:08 新田帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
六波羅ろくはら所属、禁裡きんり大番役おおばんやく
私本太平記:01 あしかが帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)