保元ほうげん)” の例文
すなわち平安朝の写本が源平時代あるいは保元ほうげん平治へいじのころに右に言ったような「綴じ目の切れた」という状態で次の時代へ伝えられる。
日本精神史研究 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
保元ほうげん平治へいじの乱である。しかも古来の歴史家は、この両度の大乱の暗いかげに魔女の呪詛のろいの付きまつわっていることを見逃しているらしい。
玉藻の前 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
そも四九保元ほうげん御謀叛ごむほん五〇あめかみの教へ給ふことわりにもたがはじとておぼし立たせ給ふか。又みづからの人慾にんよくより計策たばかり給ふか。つばららせ給へとまうす。
「——何でと問うもおろかだ。三年前の保元ほうげんの乱の折に、義朝は自分の父為義を見殺しにしたじゃないか」
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
雉四郎とやら愚千万、昔保元ほうげんの合戦において、鎮西ちんぜい八郎為朝ためとも公、兄なる義朝よしともに弓は引いたが、兄なるが故に急所を避け、冑の星を射削りたる故事を、さてはご存知無いと見える。
弓道中祖伝 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
乱破らっぱとか出抜すっぱとかと呼ばれていた山武士野武士の類は、百姓のような見せかけをしているが、保元ほうげん以来、つぎつぎに滅亡した源平藤橘の血脈をひく武辺のまがいで、夢想家が多く
うすゆき抄 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
時は治承ぢしようの春、世は平家の盛、そも天喜てんぎ康平かうへい以來九十年の春秋はるあき、都もひなも打ち靡きし源氏の白旗しらはたも、保元ほうげん平治へいぢの二度のいくさを都の名殘に、脆くも武門の哀れを東海の隅に留めしより
滝口入道 (旧字旧仮名) / 高山樗牛(著)
俊寛 保元ほうげんの乱に頼長よりながの墓をあばいた信西しんぜいは、頼長の霊にのろわれて平治へいじの乱には信頼に墓をあばかれた。信西の霊は清盛について、信頼を殺させた。今信頼の霊は成親殿にのりうつった。
俊寛 (新字新仮名) / 倉田百三(著)
一体いったい保元ほうげん御謀叛ごむほんは、天照大神の御神勅の趣旨にたがうまいと思って、お思いたちになられたのですか。それとも御自身の私欲から御計画なされたのですか。
前に保元ほうげんの乱の後、敗れた敵方の者を、日頃の悩みにまかせ、おいも若きも、敵に有縁うえんの者とみれば、仮借かしゃくもあわれもなく斬殺した信西どのの終りはどうでしたか。
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
いかに二郎、保元ほうげん弓勢ゆんぜい平治へいぢ太刀風たちかぜ、今も草木をなびかす力ありや。
滝口入道 (旧字旧仮名) / 高山樗牛(著)
前の合戦——保元ほうげんの乱の後では、信西入道には、ずいぶん思いきって、日頃の政敵や残党どもを
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
そういう暴挙は、保元ほうげん平治へいじの世にも行われたことがある。宮は必死になった。かつては吉野の奥、十津川の原始林をとりでとして豼貅ひきゅう叱咜しったした生命の持ちぬしでもある。
「よう、成人したものだ。……常磐ときわのふところに抱かれて、ほかの幼い和子わこたちと、六波羅ろくはら殿に捕われたといううわさに、京の人々が涙をしぼった保元ほうげんの昔は、つい昨日きのうのようだが」
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
これら“同窓の雀”が、時代のあらしに、翼を分かって、思い思いな二十歳はたち台の巣立すだちをしてゆく保延年間(約八百年前)の世態を前奏とし、物語はいま、保元ほうげんの乱、直前まで、書いてきました。
随筆 新平家 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
保元ほうげんノ乱の二の舞にもなりかねない。
私本太平記:03 みなかみ帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)