低徊ていかい)” の例文
ハイドンの『四重奏曲(作品三の五)』をたった一枚に吹き込むほど、低徊ていかい趣味や詠歎趣味に遠ざかった人たちであったのである。
彼女は夢のような幼い時の思出などにふけりながら、一時間にも近い間、父母の墓石の辺に低徊ていかいしていることがあった。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
低徊ていかい去るあたわず、静かにさまざまの感想にふけったものであるが、今またこの物語を草して機械のことに及ぶに当たり、ゆくりなくも当時を追懐して
貧乏物語 (新字新仮名) / 河上肇(著)
一歩渦巻にまき込まれてしまえば、那落ならくまでは一息。その途中に思索や反省や低徊ていかいのひまはない。臆病おくびょうな悟浄よ。
悟浄出世 (新字新仮名) / 中島敦(著)
私は春琴女の墓前にひざまずいてうやうやしく礼をした後検校の墓石に手をかけてその石の頭を愛撫あいぶしながら夕日が大市街のかなたにしずんでしまうまで丘の上に低徊ていかいしていた
春琴抄 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
時はすでに遠く過ぎ去っていることもわかっていたが、それだけに低徊ていかいの情も断ち切りがたいものであった。
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
かく思い定めたれども、渠の良心はけっしてこれをゆるさざりき。渠の心は激動して、渠の身は波にゆらるる小舟おぶねのごとく、安んじかねて行きつ、もどりつ、塀ぎわに低徊ていかいせり。
義血侠血 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
ましてあの低徊ていかい的な物語的な趣味がその美を左右するのではない。この世界には感傷もなく夢幻もない。それは現実に当面する課せられた仕事である。そこには廃頽はいたいの暇はない。
工芸の道 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
雑草の生える埋立地うめたてちで、詩人の心を低徊ていかいさせ、人間生活の廃跡に対する或る種の物侘しい、人なつかしい、晩春の日和ひよりのような、アンニュイに似た孤独の詩情を抱かせるのである。
郷愁の詩人 与謝蕪村 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
われらが土に葬られる時、われらの墓辺を、悲しみに沈んで低徊ていかいするものは花である。
茶の本:04 茶の本 (新字新仮名) / 岡倉天心岡倉覚三(著)
司馬懿は、低徊ていかい久しゅうして、在りし日の孔明をしのびながら、独りこうつぶやいたという。
三国志:11 五丈原の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
そうして、この門の上へ持って来て、犬のように棄てられてしまうばかりである。選ばないとすれば——下人の考えは、何度も同じ道を低徊ていかいした揚句あげくに、やっとこの局所へ逢着ほうちゃくした。
羅生門 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
女性の頭脳は遠い昔において或進化の途中に低徊ていかいしたまま今日に到った観がある。
鏡心灯語 抄 (新字新仮名) / 与謝野晶子(著)
自分の心象を綴るに恋々れんれんとしている私の心をもう押えることは止めにしましょう。低徊ていかい逡巡しゅんじゅんする筆先はかえって私の真相をお伝えするでしょう。調ととのわぬ行文はそのまま調わぬ私の心の有様です。
聖アンデルセン (新字新仮名) / 小山清(著)
高いところで、見るともなしに見ているお角の耳へは、無論この二人の問答は入りませんが、満地の墓碣ぼけつの間にただ二人だけが、低徊ていかいして去りやらぬ姿は、手に取るように見えるのであります。
大菩薩峠:22 白骨の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
ひとつの低徊ていかい——たしかに人生の中のひとつの低徊だった。そしてその時ほど人生のことがはっきりと私の胸に浮んで来ることはなかった。それは平生とて人間や人生のことを考えないのではない。
日本橋附近 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
峰吉がとしよりだったから、こんなところを低徊ていかいしていたのかも知れないし、一方から言えば年寄りなればこそ、そうして副小頭なればこそ、ここを一つぐっと押さえることが出来たのかも知れない。
舞馬 (新字新仮名) / 牧逸馬(著)
黒羽二重の紋着もんつき萌黄もえぎはかま臘鞘ろざやの大小にて、姫川図書之助ずしょのすけ登場。唄をききつつ低徊ていかいし、天井を仰ぎ、廻廊をうかがい、やがてともしびの影をて、やや驚く。ついで几帳きちょうを認む。彼がるべきかたに几帳を立つ。
天守物語 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
呂布は、狂いまわる駒と共に、低徊ていかいしてそこを去らなかった。
三国志:04 草莽の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「……ああ」と、低徊ていかいしながら、頬に涙さえながした。
三国志:04 草莽の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)