露伴ろはん)” の例文
子規も病気になるまへには露伴ろはん風流仏ふうりうぶつなどに傾倒したこともあり、西鶴さいかくばりの文章なども書いたのであつたが、晩年の随筆では、当時
結核症 (新字旧仮名) / 斎藤茂吉(著)
紅葉こうよう露伴ろはん樗牛ちょぎゅう逍遥しょうようの諸家初めより一家の見識気品を持して文壇にのぞみたり。紅葉門下の作者に至りても今名をなす人々皆然り。
小説作法 (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
紅葉露伴ろはんが取ってこれに代ったのは、畢竟ひっきょう欧化主義と国粋主義との勢力消長に原因しているので、あながち紅葉と美妙斎との芸術的優勝劣敗ではないのである。
主僧の早稲田に通って勉強した時代は紅葉こうよう露伴ろはんの時代であった。いわゆる「文学界」の感情派の人々とも往来した。ハイネの詩を愛読する大学生とも親しかった。
田舎教師 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
こればかりは日本人の真似の出来ぬ事で致し方がない。ことに婦人は駄目だ、冷淡で熱情がないから。露伴ろはんの妹などは一時評判であったがやはり駄目だと云う事だ。
根岸庵を訪う記 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
関東大震災の前数年の間、先輩たちにまじって露伴ろはん先生から俳諧の指導をうけたことがある。
露伴先生の思い出 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
露伴ろはん先生の評釈では、ふなの鮓かさわらの鮓となっているが、「又も」と「大事の」が、相当長期間の保存を意味するようにみえる。そうするとかぶらずしの方が、ぴったりする。
かぶらずし (新字新仮名) / 中谷宇吉郎(著)
秋声老人は、「僕は実は紅葉よりも露伴ろはんを尊敬していたのだが、露伴が恐ろしかったので紅葉の門に這入はいったのだ」といっていたが、同じ紅葉門下でも、その点鏡花きょうかは秋声と全く違う。
文壇昔ばなし (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
二十二年の七月廿にぢう三号の表紙をへて(桂舟けいしうひつ花鳥風月くわてうふうげつ大刷新だいさつしんわけつた、しきり西鶴さいかく鼓吹こすゐしたのはの時代で、柳浪りうらう乙羽おとは眉山びさん水蔭すゐいんなどがさかんに書き、寒月かんげつ露伴ろはん二氏にし寄稿きかうした
硯友社の沿革 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
露伴ろはんの『二日物語』といふが出たから久しぶりで読んで見て、露伴がこんなまづい文章(趣向にあらず)を作つたかと驚いた。それを世間では明治の名文だの修辞の妙を極めて居るだのと評して居る。
墨汁一滴 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
その頃文学小説の出版としいへば殆ど春陽堂一手の専門にて作家は紅葉こうよう露伴ろはんの門下たるにあらずんば殆どその述作をおおやけにするの道なかりしかば
書かでもの記 (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
同時にまた「国民小説」「新小説」「明治文庫」「文芸倶楽部ぶんげいくらぶ」というような純文芸雑誌が現われて、露伴ろはん紅葉こうよう等多数の新しい作家があたかもプレヤデスの諸星のごとく輝き
科学と文学 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
その時分の感想では露伴ろはん先生の『讕言長語らんげんちょうご』と一葉いちよう女史の諸作とにもっとも深く心服した。
正宗谷崎両氏の批評に答う (新字新仮名) / 永井荷風(著)
当時は「明治文庫」「新小説」「文芸倶楽部ぶんげいくらぶ」などが並立して露伴ろはん紅葉こうよう美妙斎びみょうさい水蔭すいいん小波さざなみといったような人々がそれぞれの特色をもってプレアデスのごとく輝いていたものである。
読書の今昔 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
談ずる事あれば当今小説家と称するもの枚挙にいとまあらざれど真に文章をよくするものに至つてはもし向島むこうじま露伴ろはん子をきなば恐らくは我右にいづるものあらざるべしと傍若無人ぼうじゃくぶじんしきりに豪語を
書かでもの記 (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
今戸心中いまどしんじゅう』、『黒蜥蜴くろとかげ』、『河内屋かわちや』、『亀さん』とうの諸作は余の愛読してあたはざりしものにして余は当時紅葉こうよう眉山びざん露伴ろはん諸家の雅俗文よりも遥に柳浪先生が対話体の小説を好みしなり。
書かでもの記 (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
初は神田錦町の神田警察署の側に店がありました。それから明治四十二、三年頃には市ヶ谷見附内から飯田町に移ったのです。春陽堂は紅葉こうよう露伴ろはんのものを出すので文学書肆の中では一番有名でした。
出版屋惣まくり (新字新仮名) / 永井荷風(著)