解纜かいらん)” の例文
たとえば、船に、横浜解纜かいらんの際、中学の先生から紹介して貰った、Kさんという、中学で四年先輩のひとが、見習船員をしておりました。
オリンポスの果実 (新字新仮名) / 田中英光(著)
明日早暁、博多湾を解纜かいらんするという「順天丸」に艀が着くと、連中は来島を先頭にして一人一人、斜にかけられた梯子はしごをのぼっていった。
風蕭々 (新字新仮名) / 尾崎士郎(著)
そのため四百七十トン百二十馬力の汽船がデットフォードで造られ、翌二五年八月十六日にファルマウスを解纜かいらん、百十三日目にカルカッタに着いた。
この時欧羅巴ヨーロッパの科学は益々ますます進み、文明西向の勢力は愈々いよいよ激して、ついに王后の助力を得て解纜かいらんしたのであったが、偶然にも亜米利加アメリカの新天地を発見し
日本の文明 (新字新仮名) / 大隈重信(著)
そのとき、解纜かいらんを知らせる銅鑼どらの音が、船首の方から響いてきた。いよいよお別れだ。私は帽子に手をかけた。
疑問の金塊 (新字新仮名) / 海野十三(著)
驚いたのは同行すべきはずの庄亮しょうりょう(歌人吉植よしうえ君)が解纜かいらん前五、六分前に、やっとリボンもつけない古いパナマ帽に尻端折しりはしょりで、「やあ」と飛び込んで来たことである。
フレップ・トリップ (新字新仮名) / 北原白秋(著)
二月十六日 楠窓なんそう東道の下に、章子を伴ひ渡仏の途に上る。午後三時横浜解纜かいらん箱根丸にて。
五百五十句 (新字旧仮名) / 高浜虚子(著)
摂津守を総督そうとくに任じて随行ずいこうには勝麟太郎かつりんたろう(今の勝安芳やすよし)以下長崎伝習生でんしゅうせいを以てし、太平洋をわたりて北米ほくべい桑港サンフランシスコくことを命じ、江戸湾を解纜かいらんしたるは、実に安政あんせい六年十二月なり。
窮屈な父の膝下から解放されるのは何にもしてありがたかッたから、早速外遊の仕度にとりかかり、その年の十二月、横浜解纜かいらんの英船メレー号に便乗して、匆々に日本を離れた。
湖畔 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
越えて二日、私は太子のことのみを考えて哀愁と思慕とで胸の閉されるような思いを続けた二日の後、太子の乗船イキトス号が横浜を解纜かいらんする日には何をいても見送りに埠頭ふとうへ出かけて行った。
ナリン殿下への回想 (新字新仮名) / 橘外男(著)
本船は横浜解纜かいらんの際、以前捕鯨船の砲手であったヴィデを招き、同時に四インチの砲を二門積み込んだのであった。それは、左右両舷に据えられた。しかも数箱の砲弾が甲板に積み上げられたのである。
潜航艇「鷹の城」 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
四月二十日出帆というのに、潮の工合で、二十日は早朝に解纜かいらんするから、十九日一ばいに乗り込むようにというお達しである。ポウト・トレインは、四時二十分にフェンチャアチ停車場を出るという。
さるほどに汽船の出発は大事を取りて、十分に天気を信ずるにあらざれば、解纜かいらん見合みあわすをもて、かえりて危険のおそれすくなしとえり。されどもこの日の空合そらあいは不幸にして見謬みあやまられたりしにあらざるなきか。
取舵 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
こうした信仰は長く同地を補陀洛渡海の解纜かいらん地としたのである。
本朝変態葬礼史 (新字新仮名) / 中山太郎(著)
すでに今日はと解纜かいらんを期していたのである。
私本太平記:11 筑紫帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
金門湾を解纜かいらんしたのは一八六七年一月だったと記している。
咸臨丸その他 (新字新仮名) / 服部之総(著)
解纜かいらんす、大船たいせんあまた。——
邪宗門 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
解纜かいらんす、大船たいせんあまた。——
邪宗門 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
解纜かいらんす、大船あまた。
邪宗門 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)