織田信長おだのぶなが)” の例文
今わたくしの手近てぢかにある系図には、一豊の弟は織田信長おだのぶながに仕えた修理亮しゅりのすけ康豊やすとよと、武田信玄たけだしんげんに仕えた法眼ほうげん日泰にったいとの二人しか載せてない。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
味方は織田信長おだのぶながから送られた援軍を合せてようやく一万余騎、それも連勝の敵軍にたいして、つぶさに敗戦の苦をめてきた劣勢の兵だった。
死処 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
もともと切支丹宗キリシタンしゅう取り扱いの困難は織田信長おだのぶなが時代からのこの国のものの悩みであって、元和げんな年代における宗門人別帳にんべつちょうの作製も実はその結果にほかならない。
夜明け前:04 第二部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
一言にして尽せば、仏教の教義は理解に苦しむが、基督キリスト教のは平易簡明であった。そのために織田信長おだのぶながをはじめ、幾多の将卒にさえ歓迎されることになったのである。
かん高祖こうそ丁公ていこうりくし、しん康煕こうき帝がみん末の遺臣いしん擯斥ひんせきし、日本にては織田信長おだのぶなが武田勝頼たけだかつより奸臣かんしん、すなわちその主人を織田に売らんとしたる小山田義国おやまだよしくにはいちゅう
瘠我慢の説:02 瘠我慢の説 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
なんで有名かといえば、その門作もんづくりがかわっているためでもなく、風光明媚ふうこうめいびなためでもない。ここのいただきの平地に、織田信長おだのぶなが建立こんりゅうした異国風いこくふう南蛮寺なんばんじがあるからである。
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
そうして後に織田信長おだのぶながにとっての最大の脅威となるだけの勢力を築き上げたのである。
「あれが織田信長おだのぶながの紋ですよ。信長が王室の式微しきびなげいて、あの幕を献上したというのが始まりで、それから以後は必ずあの木瓜もっこうの紋の付いた幕を張る事になってるんだそうです」
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
古写本こしやほんの伝ふる所によれば、うるがんは織田信長おだのぶながの前で、自分が京都の町で見た悪魔の容子ようすを物語つた。それは人間の顔と蝙蝠かうもりの翼と山羊やぎの脚とを備へた、奇怪な小さい動物である。
悪魔 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
織田信長おだのぶながは、将軍義昭をはじめは将軍として奉戴し、のちには、その地位から不法に追いはらった。一五七三年のことである。当時の天皇は、あれどもなきにひとしい状態であった。
それが新しく生命を吹き込まれるには、近世のひらけ来るのが必要であった。そして、実隆が世を去っておよそ三十年、織田信長おだのぶながはすでに足利あしかが将軍を追って、京都に君臨しておったのである。
中世の文学伝統 (新字新仮名) / 風巻景次郎(著)
十五、十六といえば、元服して一人前、十八といえば、男はひとかどの面構つらがまえがなくちゃあならねえ。……たとえば、勿体ないが、御主人の織田信長おだのぶなが公を見ろ。当年、お幾歳いくつだと思う。
新書太閤記:01 第一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
駿河の今川義元いまがわよしもと、数万の兵を率いて織田信長おだのぶながを攻めんとせしとき、信長の策にて桶狭間おけはざま伏勢ふせぜいを設け、今川の本陣に迫りて義元の首を取りしかば、駿河の軍勢は蜘蛛くもの子を散らすがごとく
学問のすすめ (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
維新がなつてのち間もなく、薩長政府は、楠正成くすのきまさしげを神として祭り、また織田信長おだのぶながを忠臣として追賛したりしている。その楠氏は、はじめには北条幕府のために、大いに尽くした武人である。
そのころ、阿波あわ讃岐さぬきは右大将織田信長おだのぶながの領地であって、三好笑厳みよししょうげんがこれをあずかっていた。土佐の元親も、勢いはあったが、英傑信長の威勢にはまだ遠くおよばず、いつも三好におされ気味だった。
だんまり伝九 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)