光圀みつくに)” の例文
頼房公時代三代将軍みずから図したるに、光圀みつくに公なおその好みにより朱舜水等の意見をも加えて造らしめたので、舜水の命名による。
明治世相百話 (新字新仮名) / 山本笑月(著)
この文章は、光圀みつくにの起稿ではない。光圀が尊敬し師事していた朱舜水しゅしゅんすいの文集のうちにある楠公画賛がさんの一文をとって、碑銘に用いたものである。
梅里先生行状記 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
すなわち水戸の二代光圀みつくには頼房の二男であった、長男の頼重は父の跡を継がないで別に高松へ松平家を創立したのである。
新潮記 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
団十郎の光圀みつくにはもちろん適任者で、世間一般からも好評であったが、その光圀よりも、わたしは浄瑠璃における文屋康秀ふんやのやすひでにひどく敬服させられた。
明治劇談 ランプの下にて (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
光圀みつくに様はよいお方。朱舜水しゅしゅんすい先生もよいお方。そうしてお屋敷は立派で、皆さん大変親切だけれど、やっぱり妾は杉窪の方がいいよ。三吉お前もそうだろうね。
剣侠受難 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
徳川というものに反逆させたのが光圀みつくにでありとすれば、尾張を、徳川家から去勢させたのが宗春むねはるだ——宗春以後の尾張は、華奢きゃしゃと、遊蕩ゆうとうと、算盤そろばんとの尾張だ
大菩薩峠:29 年魚市の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
しかも、徳川の御三家として、その藩屏はんぺいたるべき、水戸の徳川光圀みつくにの好学は、大日本史の編修となり、其の中に現はされたる大義名分の精神は、勤皇思想の温床となつてゐるのである。
二千六百年史抄 (新字旧仮名) / 菊池寛(著)
蓋し元和偃武えんぶ以来儒学の発達と共に勤王の精神は発達し来り、其勢や沛然はいぜんとして抗すべからず、或は源光圀みつくにをして楠氏の碑を湊川に建てしめ、或は新井白石をして親皇宣下の議を呈出せしめ
頼襄を論ず (新字旧仮名) / 山路愛山(著)
近世史上の尊王論そのものが、やはりそうで、徳川時代の尊王論の先駆者たち蕃山ばんざん闇斎あんさい素行そこう、そして水戸学の始祖光圀みつくにらが、時を同じうして四代五代将軍時代に輩出したのも偶然ではない。
尊攘戦略史 (新字新仮名) / 服部之総(著)
くもあめもものかは。辻々つじ/\まつり太鼓たいこ、わつしよい/\の諸勢もろぎほひ山車だし宛然さながら藥玉くすだままとひる。棧敷さじき欄干らんかんつらなるや、さきかゝ凌霄のうぜんくれなゐは、瀧夜叉姫たきやしやひめ襦袢じゆばんあざむき、紫陽花あぢさゐ淺葱あさぎ光圀みつくにえりまがふ。
月令十二態 (旧字旧仮名) / 泉鏡花(著)
先々代頼房よりふさも、よく能はたしなんだが、光圀みつくにも好きである。こんどの案内には、特にこういう意味のことばが添えてあった。
梅里先生行状記 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
そのうわさはなかなか真実らしいのだ、お上が水戸中将(光圀みつくに)さまに心酔していらっしゃることは知らぬ者はないだろう、御心酔のあまり中将さまに懇願あそばして
日本婦道記:墨丸 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
その朱舜水と肩を並べ、左手にいるのが水戸光圀みつくに、右手にいるのが光圀の寵臣ちょうしん朝日奈小弥太あさひなこやたという若い武士。ほかに二人が前駆けのていで、松明を捧げて歩いて行く。
剣侠受難 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
そもそも、百姓をかく増長せしめた近来での大親玉は、水戸の光圀みつくにだ——
大菩薩峠:37 恐山の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
藤井紋太夫ふじいもんだゆう、あれがいればこそ、水戸家の財政は、光圀みつくにがあんなにつかいちらしても持ちこたえているのであると、もっぱらその功を紋太夫の手腕に帰していた。
梅里先生行状記 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
水戸の光圀みつくには生涯、その殿中に畳を敷かせなかったという、それは古武士的な質素と剛健をとうとぶためだと伝えられるが、そうではない、事実はそういう気取りだったにしても
土屋采女正うねめのしょう様のお屋敷へも牧野遠江守様のお屋敷へも、中川修理太夫様のお屋敷へも、水野豊後守様のお屋敷へも、いいえいいえそれどころではない、光圀みつくに様以来勤王の家として
娘煙術師 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
尊氏が逆賊と決定づけられたのも、あれからですが、その編纂をとくした水戸光圀みつくに(水戸黄門)も後では少々尊氏に気の毒だと考えたのか、こう遺言しておいたというんです。
随筆 私本太平記 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
発掘したのは水戸光圀みつくにと、朱舜水しゅしゅんすいとの一行なのであった。
剣侠受難 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)