ついたち)” の例文
十二月庚午かのえうまついたち、皇太子片岡に遊行いでます。時に飢ゑたるひと道のほとりせり。りて姓名かばねなを問ひたまふ。而してまをさず。皇太子飲食をしものを与へたまふ。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
十二月ついたちに榛軒は初て徳川家慶に謁した。伊沢氏では此時阿部正弘が家臣の恩を受けたのを謝するために、老中以下の諸職を歴訪したと伝へてゐる。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
月のついたちには、太鼓が鳴って人を寄せ、神官が来て祝詞のりとを上げ、氏子うじこの神々達が拝殿に寄って、メチールアルコールの沢山たくさんはいった神酒を聞召し、酔って紅くなり給う。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
伝右衛門でんゑもん、おひで、広吉、赤湯あかゆ入湯に行。九月ついたち。伝右衛門、おひで、広吉、赤湯入湯かへる
念珠集 (新字旧仮名) / 斎藤茂吉(著)
六月のついたちの日、「お物忌のようですから」と門の下から御文をさし入れていった。
かげろうの日記 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
蘭軒の動向覚書に拠るに、其嫡子榛軒は此年文政五年十月二十九日に阿部侯正精の召状めしぢやうを受けた。そして翌十一月ついたちに医官成田玄琳げんりんに率ゐられて登庁した筈である。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
月のついたちで、八幡様に神官が来て、お神酒みきあがる。諒闇りょうあん中の御遠慮で、今日は太鼓たいこも鳴らなかった。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
棭斎の江戸より京都に至る間、月日のつまびらかにすべきものが只二つある。其一は三月二十六日に和田駅を過ぎたことである。其二は四月ついたち見戸野々尻みとののしりを過ぎたことである。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
壽阿彌は嘉永元年八月二十九日に八十歳で歿したから、歳暮の句は弘化四年十二月晦日みそかの作、歳旦の句は嘉永元年正月ついたちの作である。後者は死ぬべき年の元旦の作である。
寿阿弥の手紙 (旧字旧仮名) / 森鴎外(著)
小野富穀ふこくの子道悦が、この年八月に虎列拉コレラを病んで歿した。道悦は天保七年八月ついたちに生れた。経書けいしょ萩原楽亭はぎわららくていに、筆札を平井東堂に、医術を多紀茝庭さいていと伊沢柏軒とに学んだ。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
これはおほいあやまつてゐる。伊達綱宗は万治まんぢ元年に歿した父忠宗たゞむねあとを継いだ。えて三年二月ついたちに小石川の堀浚ほりざらへを幕府から命ぜられ、三月に仙台から江戸へ出て、工事を起した。
椙原品 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
成善はこの年十月ついたちに海保漁村と小島成斎との門にった。海保の塾は下谷したや練塀小路ねりべいこうじにあった。いわゆる伝経廬でんけいろである。下谷は卑溼ひしつの地なるにもかかわらず、庭には梧桐ごとうえてあった。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)