墨汁ぼくじゅう)” の例文
最初表面に浮かんだ墨汁ぼくじゅうの層が、時がたつに従って下層の水中に沈む場合にもかなりきれいに発達するのを見ることができた。
自然界の縞模様 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
この物質的に何らの功能もない述作的労力のうちには彼の生命がある。彼の気魄きはく滴々てきてき墨汁ぼくじゅうと化して、一字一画に満腔まんこうの精神が飛動している。
野分 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
随分書きにくかろうと墨汁ぼくじゅうふくませて見たのが機会きっかけになって、僕は間もなくこの猫柳で厄介な書信を認める運命に陥った。
親鳥子鳥 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
二本のつのの生えたいびつな方形の枠の上にななめに一本の棒を横たえた図形が、濃い墨汁ぼくじゅうで肉太に描いてあるのだ。
悪霊 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
さっそく、はねペンと墨汁ぼくじゅうかみ用意よういして、二百ページあまりの築城書ちくじょうしょを、かたっぱしからうつしはじめました。
おそらく、墨汁ぼくじゅうを流したように暗澹あんたんとした空と巨鯨のように起き伏した激浪が視界をおおっているに違いない。
秘境の日輪旗 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
真昼の太陽に草の露が乾くころには、墨汁ぼくじゅうをこぼしたかと思われる道ばたの血痕も、馬蹄ばていやわらじの土埃つちぼこりおおわれて、誰の目にも、ゆうべの修羅が気づかれない。
鳴門秘帖:03 木曾の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
片手でなわをにぎり、片手で望遠鏡をとって、四方を見おろした、湖水も、林も、岩壁がんぺきも、すべては墨汁ぼくじゅうをまいたようで、眼にはいるものはない、ただそれと知れるのは
少年連盟 (新字新仮名) / 佐藤紅緑(著)
奥さんのそで墨汁ぼくじゅうがかかって、そのために私は、居残りを命ぜられました。
男女同権 (新字新仮名) / 太宰治(著)
主観的反省では、私はいつも墨汁ぼくじゅうでもすするような自己嫌悪を味わうのであったが。私には夕方のことも夢のように思われたが、それは夢でない証拠には、私の掌には繃帯が巻かれてあった。
犬の生活 (新字新仮名) / 小山清(著)
黙ってって置くと、いかにも気の強そうな、男を男とおもわぬ風の女としか見えない、——たとえば墨汁ぼくじゅうをたっぷりつけた大きな筆で勇ましく書いた肉太の「女」というような字を思わせる
如何なる星の下に (新字新仮名) / 高見順(著)
海の上は少し墨汁ぼくじゅうを加えた牛乳のようにぼんやり暮れ残って、そこらにながめやられる漁船のあるものは、帆を張り上げて港を目ざしていたり、あるものはさびしい掛け声をなお海の上に響かせて
生まれいずる悩み (新字新仮名) / 有島武郎(著)
墨汁ぼくじゅうヲ吹イタヨウニ、砲煙ガ波浪ノ上ヲッテ動キダシタ」
人造人間事件 (新字新仮名) / 海野十三(著)
墨汁ぼくじゅうが一見かわき上がったようなガラスの面を不規則な放射形をなして分岐しながら広がって行く。
自然界の縞模様 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
「何、大丈夫だ」と云いながら高柳君はとがった肩を二三度ゆすぶった。松林を横切って、博物館の前に出る。大きな銀杏いちょう墨汁ぼくじゅうてんじたような滴々てきてきからすが乱れている。
野分 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
蜃気楼とは、乳色ちちいろのフィルムの表面に墨汁ぼくじゅうをたらして、それが自然にジワジワとにじんで行くのを、途方とほうもなく巨大な映画にして、大空に映し出した様なものであった。
押絵と旅する男 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
水中電灯は、いくら明るくても、三—四メートルしか、てらしませんので、まるで、墨汁ぼくじゅうの中を歩いているようなものです。なかまの潜水夫の姿さえ、少しも見えません。
海底の魔術師 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
清らかに洗ひすすげる白シャツに一点の墨汁ぼくじゅうを落したる時、持主は定めて心よからざらん。
『文学論』序 (新字旧仮名) / 夏目漱石(著)
それに墨汁ぼくじゅうを浸し「すらすらと書けばよい」という話である。
記録狂時代 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
ところへ過去が押し寄せて来た。二十七年の長い夢とそびらを向けて、西の国へさらりと流したはずの昔から、一滴の墨汁ぼくじゅうにもくらぶべきほどの暗いちさい点が、明かなる都まで押し寄せて来た。
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)