匿名とくめい)” の例文
伯母と母はしきりに知り人の名を数えあげたが、それはみんな匿名とくめいの必要のない人であり、毛布二枚を買う資力のない人ばかりであった。
ああ玉杯に花うけて (新字新仮名) / 佐藤紅緑(著)
「そうさ、匿名とくめい批評には、毒殺的効果があると云うじゃないか」法水はグイと下唇を噛み締めたが、実に意表外な観察を述べた。
黒死館殺人事件 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
四月十日に江戸永田町の室賀源七郎正俊が邸へ匿名とくめいの書を持つて來たものがある。肥後國熊本の城主加藤肥後守忠廣逆心云々の文面である。
栗山大膳 (旧字旧仮名) / 森鴎外(著)
しかるに吉田潔なるものが何か十一月号で上田などの肩を持ってぶすぶすいってるようですが、若し宜しいようでしたら、匿名とくめいでも結構ですから
虚構の春 (新字新仮名) / 太宰治(著)
バージェスのこの短篇集は一九一二年に匿名とくめいで出版されたが、手品師バージェスは暗号詩によって自分の名を目次の中へちゃんと隠しておいた。
探偵小説の「謎」 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
房子は、とうとう庸介に迫って響察署へ匿名とくめいの手紙を書かせた。しかし、何日まで待っても、むろん何の甲斐もなかった。
田舎医師の子 (新字新仮名) / 相馬泰三(著)
前の匿名とくめいの写本「唐人往来」も、この新刊の「西洋事情」も、等しく福沢諭吉の著述であることは申すまでもありません。
大菩薩峠:24 流転の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
しかし与次郎がなんのために、遊戯いたずらに等しい匿名とくめいを用いて、彼のいわゆる大論文をひそかに公けにしつつあるか、そこが三四郎にはわからなかった。
三四郎 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
「キャン・クラブ」に投稿するには匿名とくめいでもいゝので、表立って云えないことをドシ、ドシ書いてくるらしかった。
工場細胞 (新字新仮名) / 小林多喜二(著)
私との間に同性愛やいう噂立ったのんは実は誰の仕業しわざでもない、光子さん自身がそないいい触らしなさって、匿名とくめいのハガキ投書しなさったのんですねんて。
(新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
当時この話は日本の新聞にも載り、また翌年の『科学』には、詳しい紹介がなされた。それは匿名とくめいの紹介であったが、原著よりも分りよい立派なものであった。
時事新報に出た匿名とくめいの月評にこの作を非常に悪口言って、久米くめもこんな浅薄な物に満足している男だからだめだというようなことが書いてあったので、じつは
猫八 (新字新仮名) / 岩野泡鳴(著)
中には手加減を加へるどころか、作者自身然るべき匿名とくめいのもとに、手前味噌てまへみその評論を書いたのもある。
澄江堂雑記 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
そうして私は母のことをいて忘れようとして、私のきらいな煙草のけむりでわざと自分を苦しめた。私の同室者たちのところへは、ときおり女文字の匿名とくめいの手紙が届いた。
麦藁帽子 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
これは捨吉が毎月匿名とくめいで翻訳を寄せている吉本さんの雑誌の中に見つけた文章の最初の文句だ。
桜の実の熟する時 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
正面から時代と闘うことは勿論もちろん、大きな声では批評もできず、諷刺ふうしわずかに匿名とくめい落首らくしゅをもって我慢する人々、大抵は中途で挫折して、酒や放埒ほうらつに身をはふらかす人々が
木綿以前の事 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
新聞にも二人のうわさが出ていて、時とすると匿名とくめいの葉書が飛びこんだり、署名して抗議を申しこんで来たものもあって、そのたびに庸三は気持を暗くしたり、神経質になったりするのだが
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
あの人がまさかこんな物を贈ろうとは信じられませんでしたが、そうかと言って、まるで見ず知らずの人が、匿名とくめいで妾に花環を贈ってくれるはずもなし、外には心当たりは誰もなかったのですから。
華やかな罪過 (新字新仮名) / 平林初之輔(著)
そのころ、ほとんど毎月のように匿名とくめい批評で取りあげて「野村胡堂と吉川英治に注目する」と書いてくれる人があった。それが、一度も顔を合わせたことのない、若き日の直木三十五氏であったのだ。
胡堂百話 (新字新仮名) / 野村胡堂(著)
匿名とくめいにすると宜かったんですが、以来もう一切慎みます」
ガラマサどん (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
そのあなたが、匿名とくめいでしかも男名前で、探偵小説を書いて見る気になったのは、ちっとも無理ではありません。だが、その小説が意外に好評を博した。
陰獣 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
「時に、あっしらしくもねえ妙なことを伺いやすが……最近、先生んところへ匿名とくめいの手紙が来やしませんか」
人外魔境:08 遊魂境 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
そんなら匿名とくめいでも好いかと云うと、好いと云う。僕は厳重に秘密を守って貰うという条件で承知した。
ヰタ・セクスアリス (新字新仮名) / 森鴎外(著)
匿名とくめいで書いてみた事もあったが、書きながら眼がしらが熱くなって来て、ものにならなかった。
苦悩の年鑑 (新字新仮名) / 太宰治(著)
しかし匿名とくめいにしてさしいれするのでは、ふだんにさほど懇意こんいにしている人でないかもしれぬ、自分では想像もできぬが、母にきいたら思いあたることもあるだろう、こう思ってかれはそこをでた
ああ玉杯に花うけて (新字新仮名) / 佐藤紅緑(著)
「工場を解雇された職工達からです。もっと匿名とくめいですから、差出人は分り兼ねますけれど」
宛名あてなは、周樹人殿、としてある。差出人は、直言山人、となっている。下手へた匿名とくめいだなあ、といささかあきれ、顔をしかめて手紙の内容を読んでみた。内容の文章は、さらにもっと下手くそであった。
惜別 (新字新仮名) / 太宰治(著)
よくない。三郎は笑いながら教えた。あれは私の匿名とくめいですよ。黄村は狼狽ろうばいを見せまいとして高いせきばらいを二つ三つして、それからあたりをはばかるような低い声で問うた。なんぼもうかったかの。
ロマネスク (新字新仮名) / 太宰治(著)